白骨の御文

大きなオクラ 夕陽に映えて

はだしのゲン』に出ていたので、読み直してみました。

白骨の御文(はっこつのおふみ)](蓮如「御文」第五帖・第16通)

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、
おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。
されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。
一生すぎやすし。
いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。

我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、
おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。

されば朝には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり。

すでに無常の風きたりぬれば、
すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、
ひとつのいきながくたえぬれば、
紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、
六親眷属あつまりてなげきかなしめども、
更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべき事ならねばとて、
野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、
ただ白骨のみぞのこれり。
あわれというも中々おろかなり。

されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、
たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。

あなかしこ、あなかしこ。

(現代語訳)
 さて、人間の定まりのない有り様をつくづく考えてみますと、
およそはかないものとは、この世の始中終、
まぼろしのごとき一生涯であります。
人が一万歳生きたとは、いまだかつて聞いたことがありません。

一生は過ぎやすいものです。
末世の今にいたっては、いったい誰が百年の命を保ち得ましょうか。

我がさき、人がさき、今日とも知らず、明日とも知らず、
人に遅れ、人に先立ち、
根もとに雫がしたたるよりも、葉先の露が散りゆくよりも繁く、
日々老少定まることなく、人は死んでいくものと言われています。

それゆえ、朝には紅の血気盛んな顔色であっても、
夕には白骨となる身であります。

今にも無常の風が吹いたならば、二つの眼はたちまちに閉じ、
一つの息は永遠に途絶えてしまいます。
紅顔もはかなく変り、桃李のような美しいすがたも失われてしまうのです。

そのようなときには、
家族親族が集まって歎き悲しんでもまったく何の甲斐もありません。
そのままにもしておかれないと、野辺に送り火葬して、
夜半の煙となってしまえば、ただ白骨が残るばかりです。
悲しみはとても尽くせるものではありません。

人間のはかないことは、老少定まりのないこの世界のならいです。
ですから、どの人もはやく後生の一大事をこころにとどめ、
阿弥陀仏を深くおたのみ申し上げて、念仏するのがよいでしょう。
あなかしこ、あなかしこ。
(ああおそれ多い、ああもったいない)

(解説)
人間の無常の姿を示して、はやく阿弥陀如来に帰依し、念仏もうす身となるよう勧める。

 この御文は「白骨の御文」と呼ばれ、今日、灰葬勤行の際に拝読されるが、
人間の無常の有り様を訴えるに切なるものがあるとして、
真宗の内外を問わず広く知られている。
必ず迎えなけ ればならない死に触れることが、
現在の生を問わせるのには最も有効な手段であることから、
蓮如は巧みにこれを教化に取り入れたのである。

老少不定 
年取った人から順番に亡くなっていくとは定まっていないのに、
そのことを忘れて暮らしている私です。