法然上人の目 (八)

法然上人の目 (八)      親鸞  206   五木寛之  

法然は言葉を続けた。

「わたしが叡山をはなれて別所の聖(ひじり)となったのも、ただ法門での出世栄達をすてて、遁世(とんせい)したわけではない。
そのころはのう、隠遁し、聖となることもまた、人びとに敬われるもうひとつの名利の道でもあったのよ。

わたしのこころのなかには、そのような隠れた名声をもとめる煩悩の火が燃え盛っていたのかもしれぬ。
黒谷の別所から西山広谷、そしていまこの吉水に移り住んで易業念仏を説いてはいても、心にわきおこる迷い、悩み、欲、そねみ、などの心はどうしてもおさまらぬ。

本願を信じ、念仏一筋を選択してもなお波だつ無明の海がある。

わたしは人びとに厳しい戒律を守らずともよい、ただ念仏しさえすれば、と説きながら、この身は七十歳ちかいきょうまで、ついに女性(にょしょう)には指一本ふれずに戒を守って生きてきた。
そのゆえに清僧とよばれ、権門や仏門からも一目おかれてきておる。
しかし・・・」と、
法然は目をふせて、声をおしだすような口調でいった。

「しかし、正直にもうせば、かって美しい女性をみて煩悩のざわめきをおぼえずにはいられぬころもあったのじゃ。
女犯の罪は、夜毎の夢のなかですでにくり返し犯している。
わたしは体の清僧ではあっても、魂はすでに破戒女犯の身なのだ」

「行者宿報設女犯・・・」
法然はひとりごとのように、その言葉をくり返した。

「そうか。聖徳太子が観音に化身して、そう告げられたのか。四十年、いや、三十年前にその言葉を聞いていれば、わたしも・・・」

「ただ1回の念仏で、不動の信心がしかと定まるような者は、それでよい。
その人はすでに仏とひとしい場所にたっているからじゃ。
しかし、私も含めて末世の衆生は、ひときわ心さだまらぬもの。
愚痴のごとく日々念仏をくり返すのも、
念仏ともうすのは、
その仏縁を思いださせようとする仏からの呼びかけに、応(こた)える声でもあろうか」                 
                        (新聞連載小説より)