子どもは授かるものです

マンサク


大谷大学教授 一楽 真先生の話

真宗の救い」

「子どもは育てるものではありません。授かるものです」
という授業中の先生のことばに感動しました。
生まれて初めて聞きました。

大学の前期試験の答案にこのように書いた学生さんがいました。
その学生さんにとっては、
今までの自分の考え方をひっくり返された衝撃があったのでしょう。
その驚きを先生に直接言うのは恥ずかしい、でも伝えたいという思いで答案用紙に書かれたのだと思います。

感動を伝えたい、分かち合いたいという こころの動きは腰の重い私に行動を起こさせます。
その感動は大切にしてほしいなと思います。

でもわたしは、学生さんの告白をうれしく思うよりも、
「“子どもを授かる”という表現を今まで一度も聞いたことがなかった」
という事実に驚きました。

今日では「子どもを授かる」とは言わないし、聞くこともないのでしょうか。

最近は「子どもを欲しい、欲しくない」
「子どもをいる、いらない」
という言い方をよく耳にします。
『子どもを作ることは行為あってのことだから、その表現があっている。
「授かる」なんて偽善だ』と言われたことがあります。

だから「欲しい・いる」と言う人は、子どもが生まれた事実に満足してしまう。
「欲しくなかった・いらない」と言う人は、子どもを邪魔者扱いしてしまう。
結局はどちらも自分を苦しめてしまう。そして子どもも。

「授かり」の事実は、点ではなく線。
生まれたとき、幼くて可愛い頃、言うことを聞く頃だけの“点”でなく、私の生涯という“線”上を一緒に歩んでいく。

子どものことだけではない、人との出会いも、
自分の身に起こるあらゆる出来事も、
すべて授かりものですね。

あらゆる「授かり」の事実によって、私が存在する。
「思いのまま」にならないということではなく、
思いを超えたはたらきによって私ができていく。
「授かり」には、大切な意味があるはず。
そこに目をつぶらないでほしい。
点だけ見ていると、線が見えなくなってしまいます。