柴田保之先生の「きんこんの会」から

近所で咲いたザクロの花、青空に映えています。


「私たちは、私たちの障害に関する常識を、根本から問い直されている」
国学院大学教授柴田保之先生が中心になって行われている、
「キンコンの会」からの報告でした。
第1420号宮ぷーこころの架橋ぷろじぇくと (2013年6月26日)より
しげちゃんが文字起こししてくださったものです。


そうちゃんの言葉①
・・・・・
僕はこれで2回目になると思うのですが、
すごい会に来たなという感じがしています。
前にも言いましたが、僕は交通事故の後遺症なので、これが3度目の人生だと言いましたが、3度目の人生もそろそろ終わりが近づいてきたと思っています。
というのは、僕は4度目の人生が見えてきました。
というのは、この体で生きる意味を考えていると、この体でしかわからないことがあるとよくわかってきたからで、
そろそろ僕は、さらに新たな人生に向かって、脱皮を遂げたいと思うようになりましたが、そんなふうに数えていたらきっと、
4つ5つと、どんどん増えそうなので、数えるのはやめますが、
どんどん新しく生まれ変わる自分の姿が、うれしくてしかたあり ません。
まさか、あの大きな事故にあったあと、人生がこんなふうにひらけていくとは思えなかったので、こんなふうにどんどんと展開する人生に今は、よろこびを感じています。


両親には大変申し訳ないのですが、僕はもう、元気にならなくても、自分の人生を生きていけるので、この新しい僕をどうやって、子どもとして育てていくかという視点に、そろそろ開き直っていただいてけっこうです。
僕も最初の頃は、回復するだろうと思っていたけれど、もちろん回復はしたいけれど、回復したってきっと、そんなに目覚しく、歩いてしゃべれるということではないのかもしれないので、僕はいま周りにいる仲間たちと、しだいに気持ちが通じ合うようになってきたので、別にこの体がそれほど回復しなくともいいぐらいに開き直って、この場所からどうやって生きていくかということを、あらためてしっかりと考えたいと思います。
そう考えておいた方が、きっと力強い人生を生きれるのではないでしょうか。


もちろん僕も、回復の見込みがあることについては、最大限の努力がしたいので、いつか、歩けるような手術を受けれるけれど、
お前どうすると言われたら、迷いなく受けると思いますが、それまでの人生がまるで意味がなかったような言い方はやめたいと思います。
僕はこの状態でも意味があるということを、しっかりと伝えたうえで、
もし歩けるのなら、歩ければいいという順番にものを考えたいと思っているので、
今度の自分が、落ち着きのある人生を歩み始めていることを感じます。


落ち着きがあるというのは、もっとこうなればいいということを、ただ甘い願望のように考えているときは、人生落ち着きがないのではないでしょうか。
今の人生をしっかりと見据えて、この人生をしっかりと受け入れているからこそ、次の人生に向かうときに、確かなものになるのであって、この状態から抜け出したいという気持ちだけで、さきを目指すのであれば、それは、ただ逃げ出したい衝動を前に向かう力に変えているだけだと思います。


だから、僕は、いまここでしっかりと、足を踏みしめて立っている自分を大事にして、そこからゆっくりと前を目指してあゆみ出せばいいと思っています。
だいぶ僕が変わってきたと両親は感じているようなのですが、こんなふうに心がどんどん変わっていけるのは、やはり仲間と出会うからでしょう。
僕はずっとひとりだったわけではないのですが、まさか、仲間とこんなに話し合えるとは思っていなかったので、みなさんの言葉を聞けば聞くほど、自分に力がみなぎってくるのを感じます。
みなさんは生まれてから、ずっとこの体を引き受けて、生きてきたのだから、僕が引き受けれらないはずはないという気持ちが強くしています。
僕は新参者かもしれないけれど、同じ状況の人間として、きっと仲間として生きていけると思うので、僕も力強い気持ちでいっぱいです。
                               つづく


柴田保之先生ブログ
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