異端の渦の中で (八)

異端の渦の中で (八)      親鸞 249  五木寛之

遵西(じゅんさい)の声には異様な熱がこもっていた。
〈この男は本気だ〉と、綽空は感じた。
遵西のいうことには、たしかにうなずけるところがないでもない。
まず、上人は、愚者に徹して念仏せよ、と説かれている。
そして、すすんで、〈愚痴の法然房〉とも、自称された。

 
 しかし、文字さえも知らぬ貧しい下々の者たちと、法然上人はちがう。
叡山では十代にしてその大秀才ぶりをうたわれ、
大原における談義では天下の学僧、文人たちを驚嘆させた。
あらゆる経典を読破し、顕教密教の論にもあかるく、
〈知恵第一の法然房〉
とよばれた当代きっての碩学(せきがく)であり、智者である。
ということは、上人はうまれながらの愚者ではない。
 
 最高の頭脳と学識が、その限界をつきぬけて一挙に知恵を投げすてたのだ。
そして愚に徹し、もっとも易しい念仏一本を選択(せんじゃく)された。
いわば智をきわめて、愚にかえられたのだ。
 
 法然上人は、おのずと輝く玉(ぎょく)である。
その希代の珠玉がすすんで河原に身を投じ、
石、河原、つぶてのごとき人びととともに生きようとされている。
その玉のはなつ光に、人びとは狂喜して群れつどうのだ。

 
そして自分もそうだ。
いくら修行をつんでもなお晴れぬ真っ暗な心の闇を、
その光に照らされて目覚めた一人である。


よく考えてみれば、このわたしも決して本物の愚者ではない。
〈一文不知の愚者〉
をめざす中途半端な念仏者にすぎない。
 しかし、だからこそ法然上人に帰依するのだ。
智者から愚者への道を選んだ先達(せんだつ)として。

叡山で学んだ知識や、試みた修行は、
消し去れといわれても刺青(ほりもの)のように心を染めている。
完全に消し去ることはできないのだ。
 

その意味では、法然上人は生涯の御同行(おんどうぎょう)であり、
自分をみちびいてくださる覚者(ほとけ)なのだ。