綽空から善信へ(四)

綽空から善信へ(四)    親鸞  292 五木寛之

信空はつぶやいた。
「あなたさまは、天台のお山をおりられたが、
決してお山を去られたかたではない。
悪をもおそるべからず、と人びとに説き、
戒にとらわれずに念仏せよとよびかけながらも、
お上人さまはじめ高弟たちはみな戒を守り、清僧として生きております。
みずからは悪に染まず、手を汚すこともなく」


「そうだのう」
法然上人は綽空をみつめた。そしていった。
「しかし、同じく山を出たこの綽空はわたしらとは違う。
彼はお山を去って吉水で生まれ変わったのだ。
そして聖(ひじり)となって妻をめとり、俗人たちと同じ暮らしに身をおいて、念仏に生きておる。そこがわれらとはちがうのだ」

「でも、ことさらに本願ぼこりをあおり、
念仏者は悪にこそはげめと教えておる遵西たちを、
許すべきではありません」


法然上人がため息をついていった。
「わたしは彼ら本願ぼこりの者たちを、
厳しく叱る気持ちにはなれないのだ。
ほかになにひとつほこるものなくして暗闇のなかに生きてきたあわれな人びとが、仏の本願という心強いうしろだてを知って、狂喜し、
それをほこらぬわけがあろうか。のう」
                    (新聞小説  抜粋)