綽空から善信へ(五)
法然上人の言葉には、深い悲しみの気配があった。
綽空は思わず涙があふれそうになり、
こみあげてくる思いを必死でこらえた。
本願ぼこり、とは、
どのような悪人であろうとも必ず阿弥陀仏は救ってくださる、
というおどろくべき考え方から、おのずと生まれてくる異端の信心である。
〈念仏者に汚れなし〉
と、いわれるようになったのは、死が冥界に沈むのではなく、
浄土という清らかで輝かしい場所への往生である、
と説かれるようになってからのことだった。
この世に悩み、苦しむ人びとをすべて平等に救う、
そして浄土にうまれさせる、というのが阿弥陀という仏の誓いであり、
願いであると教えられたとき、
絶望していた人びとがおどろき、狂喜するのは当然だろう。
綽空はそういう人びとと、いつも六角堂の庭先で語りあってきた。
その話を誤解して受けとったり、
歪めて勝手に利用したりする人びとも当然いる。
しかし、それを異端者として厳しく批判することは、
綽空にはできなかった。
だからこそ、いま法然上人のいわれていることが、
ことさら深く身にしみるのである。
法然上人の声がつづいた。
「本願をほこる、
しかしそれしかほかにほこるものなき人びとのことと思えば、
私の胸はひどく痛むのだ。
母親に愛されていることにはじめて気づいた子が、
度をこして甘えたとしても叱るわけにはいくまい。
そのあたりのことを、この綽空はちゃんとわかっている。
わたしの教えを大事にしつつ、
さらにわたしの念仏をこえて前へでていく予感がする。
だから、わたしは命をかけた選択(せんちゃく)の教えを、
この綽空に手渡したいのだ」
綽空はこらえきれない涙をぬぐおうともせずに体を震わせた。
(新聞小説抜粋)