綽空から善信へ(五)

綽空から善信へ(五)         親鸞  293     五木寛之


法然上人の言葉には、深い悲しみの気配があった。
綽空は思わず涙があふれそうになり、
こみあげてくる思いを必死でこらえた。
本願ぼこり、とは、
どのような悪人であろうとも必ず阿弥陀仏は救ってくださる、
というおどろくべき考え方から、おのずと生まれてくる異端の信心である。


〈念仏者に汚れなし〉
と、いわれるようになったのは、死が冥界に沈むのではなく、
浄土という清らかで輝かしい場所への往生である、
と説かれるようになってからのことだった。
この世に悩み、苦しむ人びとをすべて平等に救う、
そして浄土にうまれさせる、というのが阿弥陀という仏の誓いであり、
願いであると教えられたとき、
絶望していた人びとがおどろき、狂喜するのは当然だろう。
綽空はそういう人びとと、いつも六角堂の庭先で語りあってきた。


その話を誤解して受けとったり、
歪めて勝手に利用したりする人びとも当然いる。
しかし、それを異端者として厳しく批判することは、
綽空にはできなかった。
だからこそ、いま法然上人のいわれていることが、
ことさら深く身にしみるのである。


法然上人の声がつづいた。


「本願をほこる、
しかしそれしかほかにほこるものなき人びとのことと思えば、
私の胸はひどく痛むのだ。
母親に愛されていることにはじめて気づいた子が、
度をこして甘えたとしても叱るわけにはいくまい。
そのあたりのことを、この綽空はちゃんとわかっている。
わたしの教えを大事にしつつ、
さらにわたしの念仏をこえて前へでていく予感がする。
だから、わたしは命をかけた選択(せんちゃく)の教えを、
この綽空に手渡したいのだ」
綽空はこらえきれない涙をぬぐおうともせずに体を震わせた。
                         (新聞小説抜粋)