綽空から善信へ(十四)

綽空から善信へ(十四)    親鸞  302  五木寛之 


綽空が写し終えた選択集を法然上人のもとに持参した時、
その場ですぐに筆をとって、
選択本願念仏集、と、みずから題字を書いた。
そのあと、さらに、
流れるように筆を走らせ、
南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本
と書きそえた。


「どうやらわたしの源空の空の字を離れて、あたらしい名前に変える時がきたのかもしれぬ。どう思う?」
「はい。ひそかにそう感じておりました。
もし、お許しがあるなら・・・」
「善信」
と、法然上人が言った。
綽空はあっけにとられて言葉がでなかった。
このところずっと心のなかでくり返していた名前である。
念仏為本は、信心為本である、
と最近つくづく思うようになっていたからだ。


念仏を口にすることはやさしいが、信がともなっての念仏である。
善く信じることの難しさは、比叡山の修行の厳しさにもおとらない。
まして自力の信ではなく、仏の側からさしのべられた信である。
その信を歓ぶ、というところにまで達するには、
上人がふだんいわれているように、
徹底して愚かな自己に還るしかない。
智者のふるまいをせず、俗にまみれ、自己の煩悩の深さをまっすぐにみつめるときに、
本当の信がうまれるのだろう。


「ありがとうございます。いずれあらためて」
綽空はそれだけいうのが精一杯だった。

(新聞連載小説より抜粋)