綽空から善信へ(十四)
綽空が写し終えた選択集を法然上人のもとに持参した時、
その場ですぐに筆をとって、
選択本願念仏集、と、みずから題字を書いた。
そのあと、さらに、
流れるように筆を走らせ、
南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本
と書きそえた。
「どうやらわたしの源空の空の字を離れて、あたらしい名前に変える時がきたのかもしれぬ。どう思う?」
「はい。ひそかにそう感じておりました。
もし、お許しがあるなら・・・」
「善信」
と、法然上人が言った。
綽空はあっけにとられて言葉がでなかった。
このところずっと心のなかでくり返していた名前である。
念仏為本は、信心為本である、
と最近つくづく思うようになっていたからだ。
念仏を口にすることはやさしいが、信がともなっての念仏である。
善く信じることの難しさは、比叡山の修行の厳しさにもおとらない。
まして自力の信ではなく、仏の側からさしのべられた信である。
その信を歓ぶ、というところにまで達するには、
上人がふだんいわれているように、
徹底して愚かな自己に還るしかない。
智者のふるまいをせず、俗にまみれ、自己の煩悩の深さをまっすぐにみつめるときに、
本当の信がうまれるのだろう。
「ありがとうございます。いずれあらためて」
綽空はそれだけいうのが精一杯だった。
(新聞連載小説より抜粋)