春の風18 いつも「できること」を



かっこちゃんの日記配信
第708号 「宮ぷー心の架橋プロジェクト」(2011年7月15日)より、
読者からのメールを抜粋、転載させていただきます。



ちかこさんからメールをいただきました。
・・・・・
初めてメールさせていただきます。ちかこと申します。
かっこちゃん、星野さん、いつもメルマガ楽しみに読ませていただいています。
ありがとうございます。
宮ぷーが学校へ行けたことに関して信司さんが「勇気が必要だったと思う」と書いていらしたことについて、
私の経験をお伝えしたくてメールいたしました。


私たちの息子・亮太朗は一年半ほど前、
小学校一年生でこの世から旅立ちました。
脳幹神経膠腫という脳腫瘍の一種でした。
発症から約一年で死に至るケースがほとんどの治療方法がないに等しい難治性の脳腫瘍です。
脳幹に腫瘍ができるので、
宮ぷーの症状とよく似ているなぁといつも思います。
亮太朗の場合、病気がわかったのが幼稚園年長の12月、
陽子線治療後すぐに左半身の麻痺が出たので(当時、異例の早さの再発
だと言われました)小学校入学の時には歩くのもやっと、
言葉も聞き取りにくい状態だったので、
私が教室の隅に付き添う形での学校生活を送りました。


毎日麻痺のある子を連れて学校に行っていると、
奇妙なものを見るかのような視線を向けられたり、
一年生だとストレートに「なんか変だよ、この子」と言う子もいました。
そんな毎日(といっても7月上旬までしか行けなかったのですが)でちょっと精神的に疲れた時、
主人に「みんなの好奇な視線がつらくて…」ともらしました。
すると主人は「神の子を連れていると思えばいいんだよ」と言いました。


病気になる前からとてもおおらかでみんなから愛されるキャラクターでしたが、病気になってからは特に悟ったような、
とにかくあるがままの自分を常に受け入れている子でした。
麻痺のことなんて少しも気にせず、どんどん前へ出て発表したり、
舞台に上がって片手でコンサートに出たり、
運動会の玉入れも綱引きも力の限りやっていました。
その姿は本当にかっこよくて、
確かにキラキラ輝くまさに「神の子」でした。


主人の言葉に納得できてからは私も堂々と連れて歩けるようになりました。  「できないこと」にではなく、
いつも「できること」にフォーカスしているという点で、
宮ぷーととてもよく似ていて、いまできる精一杯をやっているから、
きっと宮ぷーも亮太朗も恥ずかしくなんかなかったんだと思います。
そして亮太朗も私たちにたくさんの「ありがとう」を残していってくれたと思っています。
最後の方は喋ることができなくなっていって、手製の文字盤を使ったり、
それも無理になってからは眼球だけで会話していました。
そんな亮太朗が「ありがとう」を直接言ったりしたわけではないけれ
ど、私たちの心の中にたくさんの「ありがとう」を伝えてくれていたように思います。


だから最期の時、私たち家族がみんな口にした言葉は、
「ありがとう。また逢おうね!」でした。
たくさんのありがとうを教えてくれた亮太朗のこと、
亮太朗が繋いでくれたご縁を綴っている私のブログのタイトルは、      「Chikatamaのブログ〜ありがとうの日々〜」。やはり「ありがとう」って、
すごく素敵で大きな力のある言葉だと思います。
「ありがとうの花」がたくさんたくさん咲くように、
私も生きていきたいなぁって思います。
新しい本、楽しみにしています。
かっこちゃんや宮ぷー、
メルマガを通して繋がっている皆さんとのご縁に心から「ありがとう!」
・・・・・
ちかこさん胸がいっぱいになりました。
亮太朗くんは、なんてりっぱなんでしょう。
ブログも見せていただきました。一周忌でなくて、一周喜。
一生懸命生きて亡くなることは、本当に尊いことだと思いました。
                              かつこ



「できないこと」にではなく、
いつも「できること」にフォーカスしている・・・
というところで、
郁代もそうだったなあと思ったのでした。
「ありがとう」を伝え続けようとしていた郁代に、
また会えたなあと思いました。