浄土三部経読誦

さるすべり




新聞連載「親鸞」激動編(五木寛之・作)208、210より転載しています。
未知の世界へ(8)


[あらすじ]
赦免となった直後、法然の死を知った親鸞
都には戻らず越後で念仏を説きつづけようとするが、
人びとから無闇に崇められて行きづまっていく。
そこへ旧知の浄寛から便りがあり、親鸞一家は関東へ旅立った。


親鸞は足をとめて、ふと風にゆれている白い布に目をとめた。
性信房にみちびかれて常陸へむかうとちゅうのことだった。
山肌にそった道が二つにわかれて、片方がかなたに見える集落に続いている。
その道に左右二本の坊が立ててあり、その間に綱がはられていた。
その綱のまん中あたりに、白い布切れが結びつけられているのだ。
「これはなんだろう」
と、親鸞は性信房をふり返ってきいた。
「まじないでありましょう」
と、性信房は答えた。
「なにか厄介なものが、ここから先にはいってこないようにと、
結界をさだめているのではないでしょうか」
                              (後略)




未知の世界へ(10)


しばらくこの集落にとどまることにする、と親鸞はいった。
その声には断固たるひびきがあった。
親鸞はすがるような目で自分をみつめている老人に、
木陰の古い建物を指さしてきいた。
「あの祠(ほこら)をおかりしてもよいだろうか」
「ええけど、雨もりがひどいだんべ」
「かまいませぬ」
親鸞はその日の暮れがたまで、
少しはなれた丘の中腹に五体の死者を埋めた。
親鸞は荷物の中から、聖徳太子の絵像と、浄土三部経の経典をとりだし、
その夜、荒れはてた祠にこもった。
外からもれてくる月の光をたよりに、
仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』と
順番に読誦をはじめた。
浄土三部経を千回くり返して読誦する。
それが親鸞がおのれに課した試みだった。
自分にいま、なにができるのか。
悪運にとりつかれたと思いこんでいる人びとの心を、
どう癒すことができるのか。