金沢泰子さんインタビュー(2)
読売新聞医療サイト「こころ元気塾」より、
金澤翔子さん母、書家・金沢泰子さんインタビュー
(2)地震でとっさに娘抱き、育てる決心付く
――一緒に死のうと思っていたとは、穏やかではありませんね。
「翔子がダウン症と知り、一緒に死ぬ方法ばかりを真剣に考えていました。
主人や母親たちみんなを苦しめると思いこんでいたからです。
翔子を産んだのは41歳の時。
障害があったのは高齢出産した私が悪いと思っていました。
社会に対しても責任を持てないと思いました」
「まず、ミルクを薄めて衰弱死させられないかと考えました。
でも、できませんでした。
朝、薄めたミルクをあげると、かわいそうで、昼や夜はその分、濃いミルクをあげてしまったからです。
翔子はダウン症の子独特のかわいらしさで、にこっと笑うのです。
『お母さんがんばれ』みたいにそっと手を広げました。
手が外れたふりをして、坂の上からベビーカーを落とそうかと思いもしました」
「もし地震が起きたら、当時住んでいたマンションの最上階のベランダから落とそうと考えていました。
そうしたら本当に大きな地震が起きたのです。
でも、その時、ゆりかごで寝ている翔子を守ろうと、とっさに駆け寄って、抱きかかえていました。
心の底では、翔子のことを本当に愛していたのです。
育てていこうと心に決めた瞬間でした」
――翔子さんを出産する前は、子供について、
どのような思いを抱いていましたか。
「私は出産する前、もし男の子なら日本一の能楽師に、
女の子だったら日本一の書道家にしようと思っていました。
いずれにせよ、日本一の子供がほしいと思っていたのです」
「『日本一の子に』という望みは、ダウン症と告知された日に消え去りました。その後は1秒たりとも思い出しませんでした。
そして、その後20年間、学校でも地域社会でも、何をしてもビリでした。
上に上がろうとすると苦しくなりました。
普通にどれくらい近づけるかなということだけを考えました。
そして、自分の死んだ後のことばかり考えました。
死んだ後に人に迷惑かけないでいられるか。
障害者の親はみなそう思っていると思います」
友達作れるように…5歳から、自宅の書道教室で指導
――翔子さんはいつ書道を始めたのですか。
「翔子はゆりかごにいるときから私が書道する姿を見ていました。
実際に始めたのは5歳の時です。
きっかけは小学校の普通学級に行けることが決まったことです。
友達を作れるようにと、同級生3人とともに、私が自宅で始めた書道教室で教えるようになったのです」(続く)
(2012年1月27日 読売新聞)