金沢泰子さんインタビュー(1)

金澤翔子さんの書展がめいてつ・エムザで開催中なので昨日観てきました。
今回は翔子さんご本人とお母さんの泰子さんにもお会いでき、
とてもうれしかったです。
翔子さんは骨折のためギブス姿で車いすに乗っておられましたが、
会場の皆さんと一緒に写真に入ったり、
誰に対しても優しく話しかけられたりしていました。
立派に額装された『平清盛』が燦然と輝いていました。









読売新聞医療サイト「こころ元気塾」に、書家・金沢泰子さんインタビュー全文が載っていましたので、
紹介させていただきます。
(1)から(5)までの連載となります。

 今月始まったNHKの大河ドラマ平清盛」の顔となる題字を書いているのは、ダウン症の金沢翔子さん(26)だ。
その母親である書家の金沢泰子さん(68)は、ダウン症児への理解を広めようと、全国で講演を行っている。
これまでの歩みと今の思いを聞いた。(加納昭彦)


金沢泰子(かなざわ・やすこ)
 1943年、千葉県生まれ。小学1年で書道を始め、書家の柳田泰雲に師事。現在、東京・大田区の自宅で「久が原書道教室」を営む。
著書に「魂の書」(翔子さんとの共著、清流出版)など。



(1)娘がダウン症…一緒に死のうと思った
 

――娘の翔子さんがダウン症とわかったのはいつですか。


 「出産から45日後のことです。
翔子は敗血症だったこともあり、帝王切開でした。
出産後、すぐに産院から救急病院に運ばれました。
翔子はそのままずっと、カプセルに入れられていたのです。
3度の流産をへてのことでした」


 ――娘がダウンと知った時、どのように感じましたか。


 「とても苦しかったです。涙、涙で受け止めたのを覚えています。
背筋が凍りました。ずるずるとベッドに倒れそうなくらいショックでした。
当時はダウン症について誤解が多く、翔子を診た医師にさえ、
『知能がなくて歩けない』と言われました。
私は障害者が生まれるなんて夢にも思っていませんでした」


 ――なぜ45日間、わからなかったのですか。


 「主人や看護師さんたちが隠していたからです。
産後、すぐに伝えるとショックを受けると思いやってくれたのです。
主人は翔子がダウン症だということは、出産の前に医師から聞いて知っていました。
娘に会いたいと伝えても会わせてくれないので、この子に何かあるのかなとうすうす感じていました」


 ――ご主人はどのように受け止めたのですか


 「主人は、翔子がダウン症と医師に告知された時、案外平気だったようです。一つ、エピソードがあります。
出産後、主人は医師に呼ばれ、
『敗血症で、交換輸血が必要です。
ただ、ダウン症のため、知的障害もある。
交換輸血してまで助けなくてもよいのでは』とアドバイスを受けました。
クリスチャンの主人はそうした提案を受け入れられませんでした。
窓に近寄り、『ぼくは、神の挑戦を受けるよ』と言ったそうです。
確かにショックは受けたのだけど、助けようという側に回ったのです。
その話を聞いた当時、私は『なぜ助けたのか』と思ったものでした。
私は一緒に死のうと思っていたくらいですから」(続く)
                      2012年1月26日 読売新聞