かっこちゃんの「本当の幸い」





西田幾多郎哲学館であった講演会に参加した後、
「ほんとうのさいわい」をさがしてで、
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いつも「宮沢賢治が大好き」と言っているかっこちゃんが日頃語っていることと、
今日のお話しは同じなんじゃないかなあと思ったのでした。
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と書いたばかりです。


偶然、かっこちゃんこと山元加津子さんの今日のメルマガに、
宮澤賢治さんが言われる「本当の幸い」について考えていました〉
と書かれていて、うれしくなりました。
その部分を引用させていただきます。



第1189号「宮ぷー心の架橋プロジェクト」 (11月7日現在 参加者人数5402人)より



何かの催し物があって、ほかの誰もが、ああ、本当に楽しかった、
よかったと言ってくださっても、そんな中に、
「これもしてもらえなかった」
「こんなこともなかった」
というふうに、不足や不満ばかりを持ってしまわれる方がおられたとしたら、
その時間もおつらかっただろうなと思ったり、
幸せでなかったんだろうなと感じたりします。
幸せっていったいなんだろうなというお話をみんなでしたりしていました。


本当に、誰もが幸せであるためにはどうしたらいいのでしょう。
私も昨日、ちょうどそんなことを考えていて、
宮澤賢治さんが言われる「本当の幸い」について考えていました。
前にも引用したことがあるけれど、私はその部分をよく思い出します。


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銀河鉄道の夜から)
「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸いになるなら、どんなことでもする。
けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸いなんだろう。」
カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえているようでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。」
ジョバンニはびっくりして叫びました。
「ぼくわからない。
けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸いなんだねえ。
だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。」
カムパネルラは、なにかほんとうに決心しているように見えました。


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ジョバンニはああと深く息しました。
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、
どこまでもどこまでも一緒に行こう。
僕はもう、あのさそりのように、ほんとうにみんなの幸いのためならば
僕のからだなんか百ぺん灼(や)いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」
カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」
ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」
カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」
ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くようにふうと息をしなが
ら云いました。
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それから、中学校の教科書だったでしょうか?
賢治さんが生徒さんに、
「人はどうして生まれてくるのか?」
と質問される場面が載っていました。
猿ヶ石川の川辺で賢治さんは生徒たちにこう言ったそうです。
「人間は何故生まれてきたか、ということを知らなければならないために、この世に生まれてきたのです。
そしてこの問題を本気になって考えるか考えぬかによって、
その人の生存価値が決定すると思います」


1/4の奇跡の話のこと、
新原先生が一生懸命取り組んでおられる鎌状赤血球症のみなさんの痛みのこと、宮ぷーのこと、
宇宙が全部大丈夫にできている、
それが宇宙の約束であるということ、
いろんなことがぐるぐると頭の中をめぐる夜でした。
宮ぷーに「幸せ?」と聞くと、
宮ぷーはいつも必ず即答で「幸せだよ」とうなづいてくれます。
つらいことや、できないためにはがゆかったり、悔しかったりということもいっぱいあると思うのです。
でも、幸せだよという宮ぷーが本当に素敵で、すごい人だなと思います。


きっと本当は誰もが幸せであるはず、神様にいつも守られてあるはず。
そして、幸せは一人一人の中で終結するものではなくて、
一人一人の幸せも自分の手の中にあるはずだけど、
全体の幸せの中に、確かな存在価値としての自分があるはず。
新原先生がおっしゃっておられた、
人はもらうより「与えること」で強くなるんだということ。
本当にずっとそんなことを考える夜でした。
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かっこちゃんは、本当に「与える人だなあ」と思いました。