『ずっと伝えたかった』 〜ぼくの言葉、届いた〜
メルマガ第1327号宮ぷーこころの架橋ぷろじぇくと(2013年3月25日)からです。
先日取材してくださった北日本新聞のウエブページが、
いまからしばらくみることができるのだそうです。
とっても素晴らしい連載なのです。
『ずっと伝えたかった/2013年3月17日〜24日掲載』
今日は一日目のところをのせさせてください。
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「ぼくの言葉、届いた 高岡・重度意識障害の中島さん」
母の依子さん(右)に手を添えられながらノートに文章をつづる基樹さん。
「諦めないで」と同じ境遇にある人々にメッセージを送る。
■11年ぶりノートに記す 「ゆめのようです」
僕は、叫び続けていた−。
脳に深刻なダメージを受け、10年以上意識がないと思われてきた男性が、言葉を取り戻した。
2002年1月に急病で倒れた高岡市木津の中島基樹さん(31)だ。
今年に入り、自らの手で
「意識はずっとあった。でも、体が動かなかった」
とつづった。
医師から回復の見込みはないと告げられても、希望を失わなかった両親のリハビリによって表れた中島さんの“声”。
「諦めないで」。
かすかに動く左手で、同じ境遇にある人々にメッセージを送る。
(社会部・浜田泰輔)
指先に固定されたペンが、震えながらも決して迷うことなく、ノートの上を走る。「ぼ」、「く」、「の」…。文字の連なりは、やがて一つの文章になった。
「ぼくのこと わかってくれて ありがとう」
2月上旬、初めて会った中島さんは、母の依子さん(62)に手を添えられながらそう記すと、ふっとほほ笑んだように見えた。
◇
中島さんは北海道大の2年生だった11年前、サッカーサークルの練習中に心臓の発作を起こし、心肺停止状態となった。
病院に運ばれ、一命を取り留めたが、脳は大きなダメージを受けた。
医師の診断は低酸素脳症。
「回復は極めて困難です」。
駆け付けた家族はそう伝えられた。
低酸素脳症などによって引き起こされる遷延性(せんえんせい)意識障害は、回復しないという見方が医療関係者の間で根強い。
北海道から県内の病院に移った中島さんは、こうした事情から十分なリハビリを受けることができなかった。
倒れてから4カ月後、両親は重度意識障害者の積極的なリハビリに取り組み始めていた高志リハビリテーション病院(富山市下飯野)に受け入れを依頼。
自分たちも理学療法士らからリハビリ技術を学んだ。
03年春に在宅介護に移ってからも、全国の病院を巡ってリハビリのノウハウを教わり、中島さんの回復を信じて実践し続けた。
◇
言葉を取り戻したのは、国学院大の柴田保之教授(障害児教育学)との出会いがきっかけだった。
さまざまな手法を使って重度障害児の言葉を引き出してきた教授を知った依子さんが、自宅に招いた。
ことし1月、中島さんの元を訪れた柴田教授は、筋肉のわずかな動きを拾う特殊な器具を取り出した。
50音を読み上げる音声を聞かせ、思い描いた文字のところで反応する中島さんの力を感じ取る。
パソコンの画面には、中島さんが選んだ文字が次々と表示されていった。
「どうしてわかるのですか ゆめのようです なつかしいです
はなせたころのことが」
両親や友人の介助があれば、ペンで文字を書くことができることも分かった。11年もの間、閉ざされていた中島さんの言葉が、一気にあふれ出した。
「かあさん こばなれさせずに ごめんなさい」
「これまで何を考えてきたの」と両親が耳元で話し掛けると、
「つらかった でも、ぜつぼうではなかった いつかだれかがきづいてくれるとしんじていた」
依子さんは「生活が輝き始めた」と話す。
◇
意思疎通ができないと思われていた重度の障害者でも、適切な手段を与えることで、意思表示が可能になることが近年明らかになりつつある。
発症直後から中島さんを診てきた高志リハビリテーション病院の野村忠雄院長は「脳は想像を超える回復力を持っている。
中島さんのような重い脳障害でも諦めてはならないということを、医療関係者は認識しなければならない」と指摘する。
全国遷延性意識障害者・家族の会によると、遷延性意識障害がある人は、全国で推計5万5千人いるとされる。
中島さんは今、手を添えられなくても文字が書けるように練習を続けている。本当に意識があることを、多くの人に信じてもらいたいからだ。
「ぼくのようなじょうたいでも いきるいみがある いのちのたいせつさをうったえることが ぼくのしめいです」
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2.挑戦
1.発症
ぼくの言葉、届いた 高岡・重度意識障害の中島さん
◆遷延性意識障害◆
事故や病気による脳の損傷で、重い意識障害が長引いている状態。日本脳神経外科学会は▽自力で移動ができない▽自力で食事ができない▽排泄が失禁状態▽ほとんど意思疎通ができない―など6項目が3カ月以上続くことと定義している。