五木寛之氏と「暁烏文庫」

きのう暁烏敏師 について書いていた時に、聞法誌『崇信』が届きました。
その中で、五木寛之氏が蓮如親鸞に関心が生まれ学び始めたのは、
金沢大学の「暁烏文庫」であったことが書かれていました。
暁烏敏師は昭和25年、青年時代から集めた5万冊余の書籍を、
「暁烏文庫」として金沢大学に寄贈されたのです。


今の金沢城公園に、当時金沢大学がありました。(平成7年角間移転完了)


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生き生きした聖人のお姿        宮森忠利
先日、能登教区親鸞聖人750回御遠忌で五木寛之氏の講演を聞き、
生き生きした聖人のお姿にふれた。
その五木氏が初めて聖人の教えに出会ったのは金沢であった。
占領地の朝鮮から引き揚げ、その後、
憂いの心をいだいて浄土真宗の教えが染みとおっている町・金沢に住み始めた。
蓮如親鸞に関心が生まれ、学び始めたのは金沢大学の「暁烏文庫」であったという。
私には、一冊一冊の本に印されている
     「よみたしと あつめしふみをのちにくる
      ひとにのこして やすくよをさる」
という暁烏先生のお言葉が憶いおこされた。
五木氏は
蓮如という広い道を歩いて、親鸞という深遠な森に出会った」
と言い、さらに、親鸞の教えに出会って、
「罪のままで生きていけるようになった」
と言われた。
「この世も地獄、あの世も地獄」
という当時の人々には法然上人、親鸞聖人の教えは大きな光であったという。
ただ、法然は「死後の往生」、親鸞は「現生の往生」だと、
曽我先生の教えにふれ、その教えの要を押さえて話された。
すでに寺川先生が「歌う親鸞」としてふれておられることだが、親鸞聖人は人々の情(こころ)に響く語りかけとして、和讃をつくられたという。
和讃は「今様」という当時のはやり歌、
今でいえば演歌の節に合わせてつくられている。
「今様」も演歌も七五調になっている。
満堂の聴衆の方々と共に頷いて聞かせていただいた。
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『崇信』から引用させていただきました。有難うございました。


当時は城内キャンパスにあった金沢大学。
五木氏が兼六園を抜けて通った「暁烏文庫」への道と同じ道を、
私は氏が当時住んでいた小立野を経由して歩いています。
五木寛之親鸞』完結編、新聞連載がいよいよ七月から始まりますね。
楽しみです。


カラス仏によって“あけがらす”師、親鸞聖人へと導かれたわたしでした。