後生の一大事
されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、
たれの人もはやく「後生の一大事」を心にかけて、
阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、
念仏もうすべきものなり。
白骨の御文(蓮如「御文」第五帖・第16通)のお言葉ですが、
全休さんのブログで、後生一大事(ごしょうのいちだいじ)を読ませていただきました。
それおもんみれば、人間はただ電光朝露の、
ゆめまぼろしのあいだのたのしみぞかし。
たといまた栄花栄耀にふけりて、おもうさまのことなりというとも、
それはただ五十年乃至百年のうちのことなり。
もしただいまも、無常のかぜきたりてさそいなば、
いかなる病苦にあいてかむなしくなりなんや。
まことに、死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も、財宝も、
わが身にはひとつもあいそうことあるべからず。
されば、死出の山路のすえ、三途の大河をば、
ただひとりこそゆきなんずれ。
これによりて、ただふかくねがうべきは後生なり、
またたのむべきは弥陀如来なり、
信心決定してまいるべきは安養の浄土なりと、おもうべきなり。
(蓮如「御文」第一帖・第11通)
旅行や観劇、音楽やスポーツ、それに趣味と「ゆめまぼろしのあいだのたのしみ」を手を替え品替えて楽しんできたが、気づけば「死」を臨む淵の前に立たされている。
やがて来る「死」とは思ってはいたが、生きることに忙しいか、身を喜ばすことばかりに夢中になって、「死」のことは考えないようにしてきた。
しかし「死」は誰にも必ず訪れる。
今生が終わって後生がある、と。死んでから後生がある、と。
そういう後生は迷いの後生である。
我らは人間の現生をもって生死流転の終わりとして、
このような迷いの生というものはこの生で打ち切って、
そうして今度は仏に成る。
こういうことを後生の一大事という。
(津曲淳三編『曽我量深先生の言葉』9ページ)
臨終に経験する「死」を生前に経験させようというのが「信仰」だろうと思います。
「死」は人間の思いというものを通さない。
「無我」にして仏にしようというのが弥陀の本願、
生前に無我(仏心)を経験させようというのが「他力の廻向」です。
すなわち、現生に仏心をいただいて、身の滅をもって仏に成る、
これが「後生の一大事」ということでしょう。
如来回向の仏心が仏因(仏と成る原因)となるのです。
「身をすてて法を求めよ」とあるが、
七里和上は「身をすてるとは望みを捨てること」と
仰せられた。
この世の望みをすてて、後生の一大事・・・
(高下恵編「村田静照言行録」百華苑 158ページ)
わたしたちは、人生苦に遇うたびに「なぜ」という問いを発するが、
「なぜ」という疑問は知性であり、自我であり、理屈であり、「なぜ」と問うても絶対に解決されることがないのが「生死の問題」です。
知性を誇る現代人は、理屈という「我」をどこまでも押し通し、
最後は「死」をも突き通せる知性があると思っているかのようですが、
「死」の鉄壁は知性では絶対に通り抜けられない。
なぜなら、知性は命の極微にすぎず、極微が無限を知ることなどできないからです。
煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、
よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、
ただ念仏のみぞまことにておわします。
(歎異抄・後序)
「現生に仏心をいただいて、身の滅をもって仏に成る、
これが「後生の一大事」ということでしょう。
如来回向の仏心が仏因(仏と成る原因)となるのです・・・・・」
有難うございました。