話きけない現代

 そうだね、そうだね・・・とうなずきながら読みました。
次のようなエッセイでした。

「言葉の送り手ばかりに」  
               きたやまおさむ 精神科医・作詞家 

 昔から医療では「話して治る」患者さんたちが確実にいる。
大昔の医者たちは、鎮痛剤も十分になく注射もうてず、
話をきくことぐらいしかできなくて、
そういう「トーキングキュア」というものを
数多く見聞きしたらしい。
さらに、多くの重症患者に対しては、
医者は祈ることくらいしかできなかったのである。


説明の義務増える

 これに対し、現代の医療では医者にできることが増え、
患者の話をきくというより逆に医者が話さねばならないことが多い。
 検査、投薬、手術、診察、回診、注射、カルテ書き、伝票書きと、
百年前と比べるなら、
いや十年前と比べても医者がやらねばならないことは急に増
えたのである。
それはもう、私が本当に気の毒に思うくらいにまで、
急に医者たちは忙しくなってしまったのだ。
 

同時に、学校の先生も、おまわりさんも、八百屋さんも、
皆が相手の話をゆっくり聞けなくなった。
昔の人と比べて、
現代人の多くが話しを聞くのが下手になったのだろう。
また、メンバーが次々と入れ替わるために、
井戸端会議が衰退し、
皆が誰に対してもめったなことが言えなくなったきた。


受け手が減少

 さらに、コミュニケーションの送り手ばかりが増え、
受け手が減少しているのだ。
どこでも、老若男女、皆が声を張り上げてしゃべっているのに、
誰も聞いていないというようなことはないだろうか。
 インターネットやプリンター、
コピー機の普及で書かれたものは急増したが、
それが誰にも読まれないので、
結果として文字や言葉の垂れ流し現象を生んでいる。
人間の言葉の多くが、
相手のいない「独り言」になりつつあると言っていい。
さまざまな理由から、
話をきくことの要請は極めて現代的である。

 
臨床心理士やカウンセラーという仕事は、
看護師のように体に触らず、医
者のように注射もうたず、
薬剤師のように薬も出さないが、
話のきき手のプロとして、話をきくことならできるぞ、
というところに身を置こうとするのである。              
                    (11月18日 北國新聞夕刊)
 


亡き娘、郁代は友人のおしゃべりをだまって、
いつまでもよく聞いたらしい。
友人の由香さんからの手紙には、
こんな部分がありました。

 
「郁ちゃんとは旅行にもいっぱい行ったのが思い出だね。
社会人になってからも、
グアムやスキーや温泉と、
そうそうクリスマスイブに二人でデイズニーランドにも行ったね。
どれもこれも楽しかった。
よくお風呂で長風呂しながら語りあったね。
お風呂に入りながら私の悩みを聞いてもらったんだよね。
じっと聞いてくれるもんだから、
私も甘えてダラダラとしゃべっちゃって…。
おかげでいっぱいスッキリしたし、
元気になれたんだよ」