きちんと一生懸命に生きていました


「遊雲さん 父さん」著者・有國 智光氏の文章で、

「“死にかけている遊雲”などというのは一回たりともいなかったのです」
「逃げ場のない、遊雲本人にとっての生を
“きちんと一生懸命に生きていました”」 

に出会ったとき、
ああ、娘も全くその通りだったなあととても感慨深いものがありました。

このように語っておられます。
 

「死にかけている遊雲」などというのは、
一回たりともいなかったのです。
元気なときは元気なように、
いつも遊雲は生きていました。

 
最後、私が会ったのは死の2週間ほど前のことです。
器用な子だったのですが、
持って来た先生からの手紙の封を開けるのに、
もうはさみが真っ直ぐに使えませんでした。
自分の指を切ってしまうのではないかとそばで見ていてはらはらするぐらい、ぎざぎざにやっと封を開けました。
もう、気持ちを数分にわたってちゃんとしておくことは難しいような、
そんな様子でした。


そうなのですけれど、その時も初めてぱっと見たときに
「ああ、ここまでもう進んでいたか」と
驚いたのが半分なのですが、
言葉にするとちぐはぐになるのを承知ながら、
それまでの遊雲と全く変わっていなかったのです。


「あぁ、遊雲は元気だ」と思ったのですね
いつも、その時そのときを一生懸命と言うのでしょうか、
楽しく、と言っていいような気がするのですが、
生きていた遊雲がいるのみでした。


その時に自分自身、気がつかされたのです。
そうか、あなたはあなたの、逃げようのない、逃げ場のない、
遊雲本人にとっての生をきちんと一生懸命に生きている。
そうならば父さんは父さんの生を生きよう。
そううなづけたときがありました。


そううなづけてからは比較的楽でした。
そばにいてやりたい、という思いは常にありましたけれど、
たとえ離れていても、
ああ、遊雲はそばにいる、あの子は確かに何があっても大丈夫だと、
私自身安心していることができるようになった気がします。

 
結局、遊雲が自分の病気、がんというものをいくら嫌っても、
目をそらすわけにはいかなかったのですね。
こうするか、ああするか、どちらか選べます、
という状況であるならば、きっぱりと選ぶ子でした。
「これはいや。こうして」というふうに。

 
けれども選ぶことのできないことに関しては、
不思議なほど嫌がらない子でした。
進んで、と言うとちょっと響きが違うのですが、
無用な抵抗をすることなく、
すうっとそこに寄り添っていった、
そんなところがありました。

 
我が子がこういう生き方をしたのであるならば、
我が子を見送ってその後なお、
のうのうと行き続けていかなくてはならないというのが、
私が逃げることのできない私の生です。


不適切なのを自分で承知しながらなのですけれど、
こうなった以上精一杯のものを楽しませてもらおう。

そのように心がけているところです。(「山寺」より)


郁代もまた、他に選ぶことが出来ない、逃げ場のない生を、
最期まで精一杯生きようとしたのでした。