吉水の草庵にて  (十四)

親鸞188   吉水の草庵にて  (十四)   五木寛之

 

「目には見えずとも、この世界にはたくさんの仏さまがいらっしゃる。
それら数々のみ仏の中で、阿弥陀仏という仏さまは、この世に生きる哀れな者たちを決して見捨てない、と固く誓われた仏さまじゃ。
罪おおきわれらを必ず抱きとめてくださる。
それが阿弥陀さまじゃ。

わたしは若いころから、たくさんの書物を読んだ。
むずかしいことも学んだ。
しかし、どうしても納得がいかず、別所の聖(ひじり)となった。
そして、ある日、1冊の書物の中で、はじめてこの阿弥陀仏の誓いを知ったのじゃ。

そのときわたしの心と体は、雷(いかずち)に打たれたように震えた。
末法の世に、いま、この仏こそ自分がもとめていた唯一の仏さま、と感じたあの時のことを、きのうのときのようにおぼえておる。
わたしは感激のあまり、思わず叫んでしまったのだ。

南無、阿弥陀仏、とな。

わたしは物心つく前に親と別れた孤児のようなものであった。
さびしかった。つらかった。
だが、わたしはついに出会ったのじゃ。
多くの世の母親の中から、ただ一人の自分の母と出会う幸せを、選択(せんじゃく)という。
そのみ仏の本願を信じて、思わず体の奥からもれでる声、それが念仏というもの。
声にださねば、ひとには届かぬ。
ましてみ仏(ほとけ)には。

ああ、阿弥陀さま、あなたさまのお誓いを信じます。
そして一筋におまかせします、と誓う言葉が念仏じゃ。
仏の誓いと、人の誓いとが触れあえば、この闇の世に光がさすことは必定。その光に照らされて、はげまされて、われらは生きていくのじゃ。
死んでいくのじゃ。

さあ、わしをおがまずに、阿弥陀さまに手を合わせなされ。
そして、みなとともに、高らかに念仏をとなえようではないか」

 津波のように人びとのあいだから、南無阿弥陀仏、声がわきおこった。
範宴もいつのまにか手を合わせ、大声で念仏をとなえていた。


                    (新聞連載 「親鸞」より)




この世に生きる哀れな者たちを決して見捨てない、と固く誓われた仏さま。

罪おおきわれらを必ず抱きとめてくださる、

それが阿弥陀さま。

仏の誓いと、人の誓いとが触れあって


南無阿弥陀仏