犬麻呂と綽空  (十一)

犬麻呂と綽空  (十一)        親鸞 225     五木寛之

「サヨ、とよばれて、はい?とふりかえる、その返事が南無阿弥陀仏だとおっしゃるのでしょう?仏さまによびかけられてする返事だから、仏よりいただいた念仏、というのですね」

「それが、他力の念仏だ。
自力の念仏とは、仏たすけたまえ、と、こちらからよびかける念仏。
これまで範宴のころ、比叡のお山でわたしがずっととなえておったのは、その自力の念仏であった。
いまはちがう。よばれれば何度でも、はい、と返事をする。
一度のよびかけできっぱり信心がさだまる幸せ者は一度の念仏でよかろう。
だが、迷い多く、煩悩ふかき悪人のわれらは、よばれた声をすぐに忘れたり、とかく逆らったりしがちなものだ。
そんな情けない愚か者には、二度、三度と呼びかけられるのが仏の慈悲。
一念なお往生す、いわんや多念においてをや、と法然さまがおっしゃるのをきいたことがあるのだよ」
「一念と多念のことは納得がいきました。でも、悪人も救われるなら悪事はやり放題、という者たちには、なんと申しましょう」

「サヨどの、そなた、だれかに、良き薬あるゆえ毒を好め、とすすめられたら、どうする?」
「わたしはいやでございます」
(なかには喜ぶ者がいるかもしれぬ)と、犬麻呂は声にださずに思った。

                        (新聞連載小説)