ヨブ記   

残りの時間が限られている哀しさの中にいて、
「家族のやさしさが分かった事が、病気の辛さよりありがたい事やったわ」と、
どうして言えるのでしょう。

最期の晩、自分は全く食べれないのに、
「みんなで食事しよう!」
そんな辛いことがどうして言えたのでしょう。

5ヶ月近くもほとんど食べれなくて、
辛くて眠れない状態だったのに・・・。
最期の1ヵ月ほどは水も飲めなく、
身体を動かす事もできない状態だったのに・・・
遺される者を、どうして励まし続けられたのでしょう。

次の文章に出会ったとき、郁代を思い出さずにはいられませんでした。



ヨブ記         鈴木秀子 (元聖心女子大学教授)    
                  文藝春秋春号  わが心の書

 私の人生で、最も衝撃的な出来事は、
中1のときの終戦を境にして起こりました。
夏休みが終わって登校すると、教頭先生の思いがけない言葉を聞いたのです。
「まだ神社の前で頭を下げている馬鹿者がいる」
 この先生は夏休み前まで、神社の前で頭を下げるように、厳しく言い続けていました。戦争が終わった途端に、今までと正反対の価値観を突然押し付けられたのです。
子供心に正しいと信じていたものが嘲られ、昨日まで大切にしていたものが踏みにじられていく。
教科書のページを墨で塗りつぶしながら、私はいつも同じ問いを、心の中で繰り返していました。


「本当のものって、いったい何ですか。変わらないものは何ですか」

 
 私はこの時から、心のどこかにぽっかりと口を開けている空虚感を感じ続けていました。
「変わることのないもの」を求め続ける心の飢えは、慢性的なものとなって、生きる上での障害となっていきました。
 大学生になったとき、私は旧約聖書の中の知恵文学といわれる「ヨブ記」に出会いました。不信感にとらわれていた私にとって、ヨブ記を繰り返し読み、考え続けることが、精神的な闇に差し込む光となっていきました。

 ヨブ記を貫くのは、
「人間はなぜ苦しまなければならないのか、あるときは自分の責任ではないにもかかわらず苦しまねばならないのはなぜか」
というテーマです。
あらゆる病にさいなまれ、すべての財力を奪われ、あらゆる人から裏切られた義人ヨブは、絶望のどん底で叫びます。


なにゆえ、わたしは胎から出て、死ななかったのか。
腹から出たとき息が絶えなかったのか。
なにゆえ、ひざが、わたしを受けたのか。
なにゆえ、乳ぶさがあって、
わたしはそれを吸ったか。

 
 この叫びに、神は沈黙を続けます。
そして死ぬこともできず、長い苦悩を経たヨブに、
ついに神は口を開き、ただひと言答えます。
「腰に帯して男らしくせよ」
なぐさめの言葉ではありません。
ヨブへの深い信頼の言葉です。

 
 私は遠藤周作の最後のころ、よく病床に伺いました。
遠藤氏は、ヨブが体験したような辛い病を次々と背負いました。
ついには、どんな痛みより耐え難いと言われる、
全身の激しいかゆみにさいなまれました。

 
 ヨブと似た状況に、順子夫人がふと洩らされされました。
「あなたはヨブと同じね」
その一言に、遠藤氏は目を大きく見開きました。
私は遠藤氏の目に力がみなぎるのを凝視していました。
それは深い感動の一瞬でした。

 
 遠藤氏はぽつりと、
「そうだ、私のヨブ記を書こう」
と、ひとり言のようにつぶやきました。
 
 それ以降痛いとか、かゆいとか、ひと言も口にしなくなりました。
病は昂じていましたから、
かゆさはどんなに辛く、耐え難いものであったか知れません。
しかし遠藤氏は、ヨブの「だまって現実を受け容れること、神のみ旨は自分の病を癒すことではなく、苦しみを通して、変ることのない神の愛に導くことだ」の悟りを自らのものとしたのでした。
 
 それから遠藤氏の病状は悪化し、ついに遠藤周作著、『私のヨブ記』は書かれませんでした。
しかし遠藤氏のこの世での最後の日々は、神の前におのれの小ささと、起こってくることを謙虚に受け容れ、神の愛を信じて耐え抜くことでした。
ヨブに「沈黙の神」が最後に発せられたひと言、
「腰に帯して男らしくせよ」を生き抜いたのです。

 遠藤さんを見送って以来、
ヨブ記は私にとってさらに意味深いものとなっています。