恵信の選択  (九)

 恵信の選択  (九)        親鸞 284   五木寛之

全員の視線が黒面法師の手にもった針にそそがれた。
「よく見よ。綽空。この女にするか。それとも・・・こちらか」
綽空はうめき声をあげた。
「われら三人の目を、その針で突け。三人もろともに異国に売るがよい」


「なりませぬ」
恵信の声には、ふだんのやさしさとちがったきびしさがあった。


「綽空さまには、これからなさらねばならぬ大事なことがございましょう。お忘れですか。
懐から小石をとり出して、いつかおっしゃったではありませんか。
お山をおりたのは、
自分だけの悟りでは本当には救われぬ気持ちがあるからだ、と。
この小石、ツブテ、瓦のかけらのごとき人びとと共に救われてこそ、
自分は生きる意味があるのだ、と。
わたくしが綽空さまについていこうと思ったのは、そのときでございます。
その一念を、どんなことがあっても貫き通してくださいませ。
たとえ異国に遊女として売られようとも、
綽空さまのその志がむくわれるなら、
わたくしはよろこんでまいります。
どうか、わたくしを残して鹿野とお帰りくださいませ」


綽空は身もだえした。
かっと見開いた双眼から血がふきだしそうだった。
南無阿弥陀仏、南無聖徳太子、と思わず声にだしてとなえていた。


黒面法師の声がひびいた。
「どうだ、綽空。これほどのわたしでも、
それでも仏は救ってくれるのか。どうだ。
救われぬ、地獄へ落ちるぞといえば、助けてやる。
法然上人は嘘つきだといえばな」

                      (新聞小説  抜粋)