宮ぷーにはかっこちゃんがいました
きょうのかっこちゃんのメルマガ341号、とても感動しました。
お医者様からの温かいメールが紹介されていました。
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「かっこちゃんのお医者さんに対する気持ちには、私自身も同業者として、
救われる思いがしたので、その言葉に感謝しつつ、
私の思いを書かせて頂きました。
ひろちゃん先生は脳外科医でしょうか?
僕はそうです。
僕はあのCTとそして、三本目の『あきらめないで』の動画の様子を見て、さらに言葉を無くしています。
これほど広範囲に出血をして、今の状態がある、いや、命をとりとめて、
意思を伝達できる状態であるという例を少なくとも僕は知りません。
けれど、現実ですから、こんなに大きな出血でありながら、なぜ、宮ぷーが、このような回復をしているのかということに興味があります。
おそらくは、出血時にも、多くの幸運が重なっているに違いありませんが、それにしても、そのとき担当医が、
『一生植物状態でしょう』ということを言ったことについては、
やはり、責められないほどの状況だったと僕も思います。
ですから、かっこちゃんが、少しも恨んでいないで、むしろ担当医に感謝をしているということに、僕は正直安堵をしています。
しかし一つ思うことは、このような大きな出血をした患者のそばに、
宮ぷーにはかっこちゃんがいました。
けれど他の人のそばには、かっこちゃんはいないということ。
これは如何ともし難い現実です。
無論、家族は一生懸命です。
けれど医者に「だいじょうぶだから安心をして」と言えるほどの、
心の底からあふれる自信を持ったかっこちゃん。
息、汗、小さな動き、光、何一つ見逃さないかっこちゃん。
そして、一瞬一瞬に何をすべきかを、動物的直観(失礼!)で感じ取ってすぐに行動を起こすことのできるかっこちゃん。
僕がしっかりしなくてはと思わせる弱さもあり、
そして、底知れぬ強さを併せ持つかっこちゃんが、
他の人のそばにはいないということが、大きな問題点です。
でも、ここまで書いて思いました。訂正します。
宮ぷー以外の人のそばには、かっこちゃんはいないし、
誰もかっこちゃんにはなれないが、かっこちゃんから学ぶことはできる。
かっこちゃんの後を追いかけることはできるはずです。
この膨大な日記が、
医学書や論文よりも大切に思えるのはどうしてでしょうね。
兎に角ひろちゃんが、
「あのCTを見て、変に期待させるより」
と書いている意味がわかる気がします。
おそらく、ひろちゃんも、
かっこちゃんが他の人にはいないでしょう?
とそこに尽きるのでないでしょうかね。
けれど、今、一例でも、回復をしている宮ぷーの症例がある以上、
僕たちは家族になんと伝えようと、
僕たち自身の心の中で、目の前の患者が、
未来への可能性はゼロだと思うことはしてはならないということです」
いただいたメールを宮ぷーの枕元で読んだときに、
「わあ、恥ずかしいよ。ほめすぎだよね」「どじだし」と私が言ったら、「あたまぶつけるし」と宮ぷーが言いました。
「ベッドのさくにはさまった」「くぎをふんであなあいた」
「そうだよね」と私も、そうだそうだって言っていたら、
急に宮ぷーが顔をくちゃくちゃにして、泣き出しました。
どうしたの?足が痛いの? 手が痛い? 苦しい? いったいどうしたの?
宮ぷーはどれも首を振りました。
そして、「いてくれてありがとう」って言ったよ。
私も泣きました。
宮ぷーがそう言ってくれたことも泣けたし、
そんなに大変な状況だったんだと思ったら、
(思っていたはずだけど)足が震えそうに怖くなりました。
あのとき、大丈夫って思ったのに、今頃怖くなって、
そして、もうあの時期を通り越したから、今から戻るわけじゃないのに、
すごく怖くなって泣けました。
死なないでいてくれて、宮ぷー、本当にありがとう。
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お医者さんからのメールには、
私がいつも思っていることが書かれてありました。
『宮ぷーにはかっこちゃんがいました』
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