いずれの行もおよびがたき身なれば

兼六園 根上がりの松







新聞連載 「親鸞」(五木寛之・作)〜激動編〜を、
毎日楽しみに読んでいます。
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「外道院さまお膝元での人買いはならぬ。
その者たちは、われらが引きとる。わたせ」
「どうやらおいでなすったようだな。
このへんでわしらは、お役目、交替としようぜ」  (続く)
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同じ北国新聞に、青木新門さんの「いのちの旅」が、
毎週火曜日連載されています。
今回は親鸞についてとてもわかりやすく書かれていて、
うれしくなりました。


法然親鸞」〜真理はただ一つなり〜


(抜粋)
親鸞は『歎異抄』の 第二章で
親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、
よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」
と言って、念仏で浄土へ往けるか、地獄へ堕ちるか知りはしないが、
法然上人に騙されて地獄に落ちても後悔はしないとまで言っている。
私も最近
「ただ念仏して弥陀に身を任せて、法然親鸞の教えに従い信じるほかに別に何もない」
と思うようになった。


親鸞法然の弟子となって他の弟子たちと論争していた時
「善信(親鸞)が信心も、法然上人の信心も一つなり」
と言ったことに対して、他の弟子たちは
当時智慧第一と崇敬されていた七十歳の師に対して四十も年下の孫のような善信が何を言い出すのかと非難される。
しかし親鸞は頑なに自説を曲げない。
じゃ法然上人に判断してもらおうと伺いを立てると
源空法然)が信心も、如来よりたまわりたる信心なり。
善信坊(親鸞)の信心も、如来よりたまわりたる信心なり。
さればただひとつなり』
と答えている。


私が冒頭で「ただ念仏して弥陀に身を任せて、法然親鸞の教えに従い信じるほかに別に何もない」と言ったのも、
<ただ一つなり>という言葉に共感するからである。


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  いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし


どのような修行もやり遂げることができないような私なのですから、
地獄こそが私の決定的な居場所なのです。


親鸞の力強いこの言葉に安心し、魅かれます。