人は死に直面するとやさしくなる

近所の白モクレン   



青木新門さんの新聞連載
   人は死に直面するとやさしくなる  〜 大悲大慈〜 
が心に残りました。


青木新門さんは
満州の難民収容所で妹の遺体を仮の火葬場へ抱えていき、
骨が散乱するコークスの上に置いてきた九歳の時の体験が、
「私の人生を貫く原体験となっている」・・・とおっしゃっています。


(前略)
人は死に直面するとやさしくなる。
死ぬことなど考えもしないで科学を信じ、
延命と快適や快楽を謳歌している社会は、
やがて個人がバラバラに孤立化し無縁社会の到来を招くであろうと
十数年前から私は訴え続けてきた。
案の定、「無縁社会」などといった言葉がマスコミの紙面を賑わす社会となっていた。
そんな危惧を振り払うように劇的に変えたのが
この度の東日本大震災であった。


一九九五年の神戸の大震災の時もそうであったが、
人々は一瞬のうちに優しくなった。


つい先日まで他人のことなど顧みもしなかった人が積極的に支援したり、
「一人ではない」と言ったりしている。
「かまわないでくれ」と言っていた人が
素直に「ありがとう」と言っている。


仏教に「大悲大慈」という言葉がある。
大悲とは大きな悲しみのことであり、大慈とは無償の優しさのことである。
親鸞はこの大悲は自然(じねん)に大慈を伴うと説く。
なぜならそれは如来のはたらきであるからと。


念仏(南無阿弥陀仏)は南無大悲大慈如来でもある。
法然は『一枚起請文』で、
「私の念仏は、観念の念仏でもなく、学問で得た念仏でもない」
と断言している。
人間の力では解決できない大きな悲しみを宿縁とした法然親鸞の言葉は、
まさに生死の現場から生まれた大悲大慈如来真言であると
私は信じて疑わないのである。   
北国新聞  4月12日)