千回読誦中止

新聞連載「親鸞」激動編(五木寛之・作)211、214より転載しています。


未知の世界へ(11)


夜だった。
「どうかなさいましたか、親鸞さま」
恵信はふたたび声をかけた。
親鸞の影が、ゆっくりと恵信のほうへむきなおった。
「恵信どのか」
「はい。お体の具合でもお悪うございますか」
「ここを立ち去ろうと思う」
と、親鸞はいった。
恵信はおどろいて、思わず問い返した。
「三部経の読誦は、どうなされます。
おやめになるのですか」
「そうだ。途中だが、やめようと思う。
性信房どのにそう伝えてくれぬか」
                       (抜粋)




未知の世界へ(14)


恵信はまばたきした。
自分がふしぎな夢をみたことで、心が波だっている。
夢の中できいた言葉が、はっきりとよみがえってきた。
法然上人は勢至菩薩―〉
そして、親鸞こそはまさに観音菩薩である、とその声は告げたのだ。
たかが夢、とは思はない。
その夢は、迷っている自分の心になにかを語りかけている。
(中略)
しかし、いま恵信の心に迷いは消えていた。
親鸞という人は、ただ自分の夫というだけの存在ではない。
法然上人とともに、この世に大事な役割をせおってあらわれた一人の菩薩なのだ。
夢は単なる想像ではない。
それは夢告げのかたちをとった真実の声である。
恵信には、そうとしか思われなかった。
翌朝、恵信は自分がみた夢のことを親鸞に語った。
法然上人が勢至菩薩である、という声をきいた、と、それだけを伝えた。
「わたくしと一緒に、この常陸(ひたち)の地で暮らしていきたいと、ほんとうに思われますか」
と、恵信は親鸞の目をみてきいた。
「そうしたいと思う」
と、親鸞は答えた。
恵信の心は、そのときはっきりとさだまった。