さあ、この手につかまれ

新聞連載「親鸞」激動編(五木寛之・作)231  より転載しています。


山と水と空と(17)
「その話は、まあ、よいではないか」
と、横から香原崎淨寛が声をかけた。
「いずれにせよ、海山稼ぎして生きることがつくづく悲しいと思う者たちがいるということだ。で、歌の文句の、よろずのほとけにうとまれて、というのは、どういう意味であろうか」
親鸞は気持ちをとりなおして語りだした。


「業(ごう)のふかい暮らしの中で、人びとは仏にすがろうとするのです。
世の中にはたくさんの仏がいる。
しかし、どの仏も海山稼ぎの者たちには首をふって、相手にしてくれない。
おまえたちのように業の深い者たちは救うことはできない、と。
ふだんから殺生をかさね、善い行いもせず、きびしい修行もしない者たちが何をいまさら、と、すがる手をふりはらって去っていってしまう。
そして、とり残された人びとは、われらは仏にすら嫌われているのだ、と、どうしようもない気持ちでため息をついている、
そういう切ない歌でしょう。
わたしは、この歌を思いだすたびに、なんともいえない心持ちになってしまうのです」


親鸞は息をととのえて、もう一度同じ歌をうたった。


♪ はかなきこのよを すぐすとて
  うみやまかせぐと せしほどに
  よろずのほとけに うとまれて
  ごしょう わがみをいかにせん


さきほど、とれたての魚を食うのがうれしい、といった日やけした男も、目を伏せてじっと歌にききいっていた。
親鸞は話しだした。


「そこへ法然上人という方があらわれたのだ。
山をおりた上人は、人びとにこう語りかけられた。
よろずの仏にうとまれた人びとよ、絶望することはない。
聞きなさい、ここに阿弥陀仏という、特別な仏がおられる。
その仏は、よろずの仏にうとまれた人びとをこそ救う、
と誓って仏になられた唯一の仏なのだ。
他のすべての仏たちに見放された人びとを救うのが、
自分の役割だと固く誓って仏となったのが阿弥陀仏
苦しみ、おびえ、悲しんでいる人びとに、
われに答えよ、と呼びかけられる。
そして自分のほうから人びとのところへ歩みよって、
手をさしのべていわれる。
さあ、この手につかまれ、そして、共に光の中へ歩み入ろう、と」