かすかな灯火

講演会でよくお聞きした、五木寛之さんが子供のころの実体験。
用事を命じられ山越えで出かけたのだが、
夜の闇の怖さで身動き出来なくなった。
隣の町の灯火がかすかに見えたときのあのやすらぎは、
決して忘れられないと。
小説の中の親鸞は、五木さんご自身を語っていられると、
私には聴こえてきました。


前回のあらすじ
・・・あれは、わたしが9歳のとき、その寺にはいってまもなく、寺のお坊さまから、大変な役目を申しつけられた。
いまから急ぎ比叡山の横川の宿坊まで荷物をとどけてこい、という話だった・・・。


新聞連載「親鸞」激動編(五木寛之・作)236  より転載しています。


山と水と空と(22)


親鸞は話をつづけた。
「やがて途中で夜になった。
最初は月の光をたよりに山道をたどっていった。
比叡は十六谷というが、都から眺めているのとは、まったくことなるけわしい山なのだ。
杉の木立は黒い巨人のように頭上にそびえ、一歩ふみはずせば谷底に転落しそうな崖の道がつづく。
途中から雲がでて、月の光が消えると、あたりは真の闇だ。
そして、どこまでいっても、目ざす横川にはたどりつかない。
背中の荷物の重さが骨身にこたえた。
草鞋の緒が切れ、いつしか裸足になっていた。
岩にぶつけた指から血がふきだし、荷物が肩に食いこんで、
体が思うように動かない。
そのうち、はるか下のほうから水の音がきこえた。
どうやら滝壺の上の細い道にさしかかったらしい。
これほど深い闇というものを、はじめて感じた。
這うように進んでいったが、手足がすくんで、一歩も前へでられなくなってしまった。
足もとの小石が崩れ、音をたてて闇の底に落ちていく。
体が震えて、息が苦しくなる。
わたしはそのとき、生まれてはじめて真の恐ろしさを感じたのだ。
身動きもできず、叫び声もでない。
いまにも深い断崖から真っ逆さまに落ちていくのではないかと思った。
思わず泣きだしてしまった。


そのとき、空から青白い光がさしてきて、
あたりをくっきりと照らしだしたのだ。
雲間から月があらわれたのだった。
月光は信じられないくらいの明るさで、わたしのまわりを照らしていた。
そのとき、わたしにはようやくわかったのだ。
自分が山肌にそった細い道の途中にいることが。
そして、その道をずっとたどっていけば、まちがいなく横川にたどりつくことが。
片手で山肌をさぐりながら、わたしは歩きだした。
すると木立のかなたに、かすかな灯火が見えた。
あれが横川の燈だ、あそこまでいけばいいのだ、そう思うと、嘘のように体が動いた。
そして、わたしは無事に横川の宿坊までたどりつくことができたのだった」


親鸞は言葉を切って、しばらく人びとの顔に目をやった。
そしていった。
「月の光があたりを照らしたからといって、背おっている荷物が軽くなったわけではない。遠くに横川の燈が見えたからといって、そこまでの道のりが近くなったわけではない。
荷の重さもかわらない。
歩く道も近くはならない。
だが、わたしはたちあがり、歩きだすことができた」