背負った荷の重さが軽くなるわけではない

新聞連載「親鸞」激動編(五木寛之・作)237  より転載しています。


山と水と空と(23)

親鸞は恵信のほうへ目をやった。
恵信は明信と小野を左右に坐らせて、かすかに微笑していた。
親鸞は、ふたたび話しだした。


「つまらぬ思い出ばなしをしてしもうた。笑ってくださってもいい。
わたしがいいたかったのは、そういうことだ。
わたしは物心ついたころから、ずっと心に闇を感じて生きてきた。
母と子供をすてて家出をした父をうらみ、いつもけわしい目をしていた母をおそれていた。
居候の身をはずかしく思い、弟たちを足手まといと感じる自分を憎んだ。
比叡山で学んでいたときは身分の高い学生(がくしょう)たちをねたみ、荒々しい堂衆、僧兵らをうとんだ。
さまざまな修行のはてに、
仏を見出すことのできなかった自分に絶望もした。
心は黒々と底知れぬ闇にとざされていた。
法然上人に出会ったのは、そんな真っ暗闇のただ中にいるときだ。
しかし、わたしは、ただ念仏せよ、という上人の言葉を、
そのまま受けとることはできなかった。
百日間ずっとその言葉をききつづけた末に、
突然、月の光に照らされたような心持ちになったのだ。


よろしいか、みなの衆。
念仏をしても、背負った荷の重さが軽くなるわけではない。
行き先までの道のりがちぢまるわけでもない。
だが、自分がこの場所にいる、この道をゆけばよい、
そしてむこうに行き先の燈が見える、
そのことだけでたちあがり、歩きだすことができた。
念仏とは、わたしにとってそういうものだった」(後略)