大悲

親鸞」激動編 326(五木寛之・作)より転載しています。
 出会いと別れ(7)

  
[あらすじ]
親鸞一家が関東に移って十数年が過ぎた。
黒面法師の黒念仏など、異端の流行に胸を痛めつつも、
教行信証』の著述に励み、念仏の仲間と語らいながら、
親鸞が見出した救いとは何か。
物語はついに完結へ。




頼重房は体をのりだして、しぼりだすように言葉をつづけた。
「私が阿弥陀仏という仏に命をかけようと決めたのは、ほかでもありません。
この世に生きて、もっともあわれな者たちから、まずすくう仏だと教えられたからです。
そうだとすれば、死ぬまで念仏に出会うこともなく、
おのれの悪を悔やむこともなく、
阿弥陀さまさえ嘲笑いながら一生を終える者こそ、
この世でもっともあわれで、みじめな者ではありませんか。
おのれの悪を自覚できるとか、ふかく懺悔するとか、念仏を信じるとか、
そんなことを最後まで拒む悪人こそ真の悪人。
その悪人を悪人のまま救う、というのが大悲というものでしょう。
ちがいますか、親鸞さま」






ながい沈黙のあと、親鸞はいった。
「あの男も、すくわれる」
えっ、と真仏と頼重房が息をのんだ。
親鸞はつづけた。
「しかし、それは、この世を去ったあとのことだろう」
「臨終ののち、ということですか」
真仏がきいた。
「そうだ。念仏する者も、それを信じない者も、
ひとしく人は浄土に往生するのだよ」


「では―」
と、頼重房が眉をひそめて、
「それは、信心する者も、しない者も同じ、ということですか」
親鸞は首をふった。
「ちがう、と思う」
「どうちがうのです」
「見えない阿弥陀仏を心から信じ、念仏する者は、
いま、そのとき新しい人間に生まれ変わるのだ。
無間の闇におびえて生きていた自分が、じつは無限の光に照らされている、
阿弥陀仏という仏に抱きしめられて浄土へ往生する身なのだ、
と確信できたとき、人は臨終をまつことなくすくわれる。
念仏と出会わなかったあわれな人びとは、死んでのちにすくわれる。
だが信をえたとき、その人は生きたまま、ただちにすくわれる。
ひとしく往生するとしても、そこがちがうのではあるまいか」


真仏も頼重房も無言のままうなずいた。
親鸞は、はにかんだように微笑した。