看取りの医者

延命治療をし、家族の希望通り1秒でも命を伸ばすか・・・
残された大切な時間を自分らしく生きるか・・・


ゆうべのテレビドラマ
「看取りの医者 バイク母さんの往診日誌」を見て、
郁代の最期が思い出され胸がいっぱいになりました。


出演 大竹しのぶ 貫地谷しほり
野国美の同名小説が原作



つくば市にあるみどりクリニックの院長・栗山みどり(大竹しのぶ)は、病院での延命治療をやめ、自宅で死と向き合って生活している終末期の患者を訪問診療している。
患者と些細なことでも会話し、家族からの連絡があれば昼夜を問わず、愛用の原付バイクで駆けつける。
患者が家族と常に触れ合うことで、余命が延びることもある。
しかし、病状の把握がしやすい病院と違って、自宅での看護となると家族の負担は大きい。
みどりと夫潔、娘のかおるは何年も家族としての会話をしていない。
それにはみどりの亡き息子・大の存在が関係していた。
番組の内容はこちら




がんが再発し余命を告知されたとき、郁代は言いました。
「これからの生き方は(婚約者と)二人で決めるからお母さんはそれを見守っていてね」

私は「在宅でのゆるやかな治療を希望した娘の生き方を100%支える」と決めました。
自分の与えられた時間の期限に、
かたずけたい事、
やっておきたい事、
伝えておきたい事を整理し
名残惜しい思いいっぱいのまま、郁代は命を輝かせておりました。


あなたにあえてよかった」からの抜粋です。
・・・・・
緊急入院
八月十三日
明け方、一口のジュースがのどにつまり、一時呼吸困難になる。
ホスピスへ、入院したいと伝えて!」
決めるのはいつも郁代本人だった。これまで、ずっとそうしてきた。
I病院の訪問看護を受け、常に病状を連絡し合っていたため、いつでも入院できる態勢に入っていた。
この時も、迅速に対応してくださった事は有り難かった。
午前十時自宅を出発。病室に落ち着いたのは昼頃だった。
介護タクシーでの移動中、郁代は吐き続けた。
僅かの貴重な水分が失われていくようだった。
体位変換ができないうえ車の振動が吐き気を誘い、身体への負担は予想以上に大きかったのである。


午後、郁代は新たな主治医に、今までと同じように、LIVING WILL(尊厳死の意思表示)を伝えた。笑顔で話すその口調はおだやかだったが、強い意志が感じられた。


「わたしがこれから言うこと、聞いてくださいね。
一番目 無駄な延命処置はしないで下さい。
二番目 苦痛を和らげるための治療は最大限にお願いします。
三番目 一切の生命維持措置はしないで下さい」


次は看護師に、
「これから言う三つのこと、お願いしますね。
一つ目 身体を起こす時、首を支えてね。
二つ目 お腹のここをさわると痛いので、気をつけてね。
三つ目 体位変換の時、床ずれのところ痛いので、気をつけてね」


病院のスタッフとミーティングするだけでも大仕事だった。
意識だけは鮮明だったから、体力が限界を超えつつあることを、周りの者は一瞬忘れていたのかもしれない。
「あと、二、三週間でしょう…」
主治医はそう言い、「急変も有りうる」と付け加えた。


夕方、仕事を終えた家族が揃った。
緊急入院だったので、一時的に特別室が用意されたため、「広いね!」「ホテルみたいね!」と、三ツ星レストラン、四ツ星ホテルの話題で盛り上がった。
旅行会社にいたことがある郁代が、急にいきいきしてきた。
「家族旅行でホテルに泊まっているみたいね」
郁代の次に旅行好きの夫がそういった。
その時、郁代が突然言った。
「これからみんなで食事しよう!」


食べ物の摂れない郁代の前で食べられるはずがなく、家族揃っての食事会は、いつの頃からか途絶えていた。
うどんなら…、おそばなら…、と出掛けても、
「私の分は注文しないでいいよ。お母さんの分を少し食べればいいから」。
四月の頃からそんなふうだった。
このころ、話題が「食べ物」にふれることさえはばかられていた。


お兄ちゃんが、近くの弁当屋から調達してきた豪華メニュー。
押し寿司、いなりずし、サンドイッチ…。
郁代の前で食事をすることは辛いことだったが、「やめておこう」とは言いだせなかった。
心の中で泣きながら、私たち家族はおいしそうに食べた。
「みんなで食事したい」という、郁代の願いを叶えてあげたいと皆が思っていた。
「はじめての病院食、どんな味付けか、わたしも食べてみるわ」
五分がゆ、煮物、煮魚、おつゆ、フルーツ…。ほんの少しずつ味見をしては、口から出し、郁代は、
「ここの食事、すごく味付けがいいわ」とうれしそうに言った。
賑やかな夕食だった。
「新聞の購読どこにしようかな?
Aは家にあるし…お母さん、B新聞を明日契約してきてね。毎日届けてほしいから」


一日を振り返ると郁代は朝から休む暇がなかった。
気力も体力も限界だったはずだ。
それなのに郁代は家族の前で元気に振る舞っていた。
身体機能が停止直前の中で「いのち」だけが輝いているような、
今思えば不思議な光景だった。
「明日また、みんなで来るよ」と、お兄ちゃんが言うと、
「むりしないで。わたしのせいで、みんなが病気になったりしたらいやだから」
昼は看護師に「ありがとう」と何度もいっていた。
郁代は、いつも家族への配慮を忘れなかった。
いのちの極限にいてなお郁代は、「いまの自分にできる事」をしようとしていた。


私一人が残り、家族は帰っていった。
だが、これが「最後の晩餐」だったと知るのは、わずか十時間後のことであった。


「会いたい人、みんなに会えてよかった。あしたから、わたしだけの時間にして、静かに過ごすわ…。
これまで、お母さん、完璧やったわ。
必要なもの、必要なことが、いつも直ぐに用意されていたもの…」
力になれなかった…、助けてやれなかった…。
悔いる母を、郁代は「許す」といってくれていた。
・・・・・