やわらかな光に満たされて

近所を歩いていたら、春の光が満ちていました。



シドニーのヒロミさんが訪ねて下さった頃が、本当に辛くて辛くてね。
水も飲めない、眠れない状態が続いていて、
「お母さんがよろこぶなら・・・」と、
たま〜に“しぶしぶ”と水分点滴だけ・・・。
腹水がたまって苦しいからと、それさえ拒否していました。
「眠れない、ひどいな〜」と、
私の膝に倒れてきてからもう1か月がたっていました。
そんな中でも、友人と会い続けます。


海外に長くいたので、何年かぶりの方もいました。
ベッドから携帯電話で連絡をとり、いつ会うかコーディネートします。
この作業だけでも、衰弱した身では疲労困憊なのです。
3日  午前9時Aさん、10時Bさん、11時Cさん・・・
    午後1持○○、2時○○、3時○○
4日・・・
5日・・・もびっしりです。県外、海外からもです。
親類の人や、従姉妹と会う時間もとれません。


見ていられませんでした。
「もう、やめて!」って心で叫んでいました。
もし、固定電話だったら、
「とても会える状態ではありません」と私から断りたいくらいでした。
電話の声はしっかりしているし、病状がそれほどひどいと知らない友人は、
もちろん悪くないのです。
会っているときも郁代は凛としていて、うなだれているのは周りの者です。


ずっと遠慮していた私の姉たちが、もう限界と
「5分でいいから郁ちゃんに会わせてほしい」と懇願してきました。


郁代の友人であればと我慢していた夫も、
わたしの姉妹だとわがままが出ます。
どうしたと思いますか?


「衰弱しきった郁代にこれ以上疲れさせるわけにはいかない」と、
玄関はもちろん、家じゅうの窓のカギをかけまくったのですよ。
それからはもう自分を見失うばかり。
娘の内面に向き合うどころか、
「自分が楽になりたい」ことだけで頭がいっぱいになり・・・。
「今郁代を守らなくてどうするの?」と心で叫びつつ、
手のかかる夫を前に私の葛藤が続いたのでした。


郁代は命を縮めてまで、
どうしてあのような『過酷』を自分に課したのでしょうか。
わが身を捨てて顧みずの行為でした。
「少しでも体を休めてほしい」・・・
“生きるか死ぬか”という世界だけで見ていた私には理解できず、
苦しくてたまりませんでした。


ある時、ふっと気がついたのです。
「郁代は生死を超えた真実の世界で生きようとしている」と。


郁代が重い病気とわかった時、
私には一つだけ、固く心に決めたことがありました。


「郁代の生き方、頼みごとを、決して否定したり反対しないで、
自分がどんなに苦しくても、“まるごと守る”」、と。
郁代は小さいころから「自分の生き方」を通す子だったから。


郁ちゃん
何日も水も飲めない郁ちゃんの前で、お友達に出した昼食が、
「今のところ私の人生で、一番辛くて悲しい食事の用意」でした。


今日の「 聞其名号 信心歓喜」より


・・・・・
長きにわたる裏切りにもかかわらず、私を信じ、手だてを尽くして目覚めへと導いてくださった仏のご苦労を思うとき、
ありがたさ、申し訳なさに、自然と念仏申されます。
私にかける仏のこころと、仏を思う私の心が溶け合って、
やわらかな光が一切を満たすように感じられます。
親に信じられてある幸せ、と言ったらよいでしょうか。
・・・・・


郁代はこのような光の中にいたのではないでしょうか。
全休さん、有難うございました。