「み運びのままに」 5

我が家のすぐ近くには田園も





「み運びのままに」4に続きます。
           

「み運びのままに」 
                   浄秀寺前住職  藤 原 正 遠
                   き  き  て    金 光 寿 郎


金光  同じようなことを、任せるということは、
こちらで任せる必要がないことだというふうにも、おっしゃっておりますね。
 

藤原  それはもう、任した人は、任せる必要がないというわけです。
任せるという言葉のある間は、まだ、任せておらんので。
私は男ですという必要ないもの。男なんだから。
信じた人にはもう信ずる必要はないです。
 

金光  そこで、ではどうして、なんてという質問が、どうすればそうなるかという、また、分別では、直ぐそういうことを考えるんですが、こういうのがございますね。

 
     空念仏(からねんぶつ)まことによろしいつの日か 
       空(から)は棄(す)たりてまことは残る
 

藤原  そうです。さっき言いかけた、佐々さんが、小児マヒで、十年間、確か寝ておったね。
それでも何を思っていたかと言うと、「何で死なんか」と思っていた。
そういうことは、自分自身に何もたのみがなかったわけですよね。
 

金光  自分では、どうしようもないというところに、
 

藤原  それだから早う死んだらいいというんでしょうね。
しかし、「念仏出ますか」と言うと、「出ません」とおっしゃったから。
「それなら練習しましょう」と言ってね。
そして、私が先ず”南無阿弥陀仏”と言ってね。
後でね、私が真剣に”南無阿弥陀仏”というのがおかしかったと。
それでも「真似しよう」と言うから、せにゃあならんから、心で笑いながら、お念仏したのがご縁なんですよ。
それが真(まこと)になったんや。
初めは笑うてしておったことが、いつの間にか、何かいろんな事件があった時に、ほっと、南無阿弥陀仏が生きて来たことなんでしょう。
 

金光  称えている中に、無分別智のよび声が聞こえて来たと。
 

藤原  そうですね。
 

金光  そうしますと、今、苦しんでいる人の場合も、その苦しんでいるところから、逃れたいと。
何か救済とか、救われるとか言うと、救われたいということを、当然、誰でも考えると思うんですが、そこのところが、救われたいと思う。
それがその歌としては、こういうのがございます。 
     
    救われむとするわざやめてみ光の中に
           すべてがあるをしるべし
 

藤原  しかし、この歌の境地に出られるのに、親鸞聖人は二十年かかられたと。
比叡山に行かれて、法然様のところに行かれる間に、二十年かかる。
私は、私なりに、何か時間でなくて、行き詰まったんでしょう。
親鸞聖人は二十年して、ほんとに行き詰まられたのと、
今、何か一瞬に行き詰まるかも知れんからね、時間をおかんでもいいわけですね。
 

金光  佐々さんの場合は、もう死にたいと思って、死にたい、死にたいと思って、行き詰まっていらっしゃるところで、真似の念仏をされたという。
 

藤原  そうです。しかし、真似の念仏しておる間に、ほんとの念仏が流れた、
死にたいという時は、絶望しているから、
今は死にとうない、生きたいというところに、人間として、本来の人間になったのでしょうね。
 

金光  そうすると、この不可思議な肉体を頂いている、そのままの肉体が仏様のわざとして、自分の命が永遠の命の中にいるというところで、生きたい、生きたいということになるということでございますね。
 

藤原  そうそう。まあ自分は死んでも、しかし、みんな次々の仏様の命があらゆるものを出して下さる。
仏様の命というものはこれは永遠のものだというところに。
南無阿弥陀仏”というのは永遠のお命だというので、私も死んで行けるわけです。
背景がないと困りますけれども、永遠なるお命の活動の中に、私は一分子としてここに命を頂いて、またその世界に帰るといま帰るわなあ。
そしてここに私をあらしめている大生命力のお命は、草も木も、全部親兄弟となって、荘厳されている。
ここが浄土です。

 
金光    さまざまの死に方あれどすべてみな
          弥陀のいのちの電源のわざ
 

という、こういうお歌があるんですが、やっぱり今、おっしゃったところでのお歌ということでございますね。
こういう死に方がいいとか、何とかということは全く問題ではなくて、
 

藤原  いや、元がきまると、どの死に方も尊い死に方ですわ。
 

金光  電源というのは、
 

藤原  大宇宙を活動して下さる永遠のお命さまがありますわね。
 

金光  それを電気に喩えていらっしゃるわけですね。
 

藤原  そこから、草も木も全部御同朋御同行で、出ていらっしゃるところに、私は死にとうないのも、本当ですよ、死にとうないけれども、
しかし、私をここに私たらしめている、そのお命がね、そういう背景を頂きましたら、
死にとうないのも、本当だけど、また死なんと、後が出てこれんから。
南無阿弥陀仏”とね。
ですからそういう理屈でなくて、やっぱり“南無阿弥陀仏”で、みんなおさまっておりますわ。


南無阿弥陀仏は義なきを義とす」と言われますから、
われわれ話していたら、義がありますけれども、
南無阿弥陀仏は一枚になっておりますね。
私と法とが一枚になってるから、“南無阿弥陀仏”と。
よく聞かれますわ。
南無阿弥陀仏て、どういうわけですかと。


これはもう大宇宙の永遠のお命と自分とが、
お母さんと呼んでる、子供は生んだ親を呼んでいるように、
大宇宙の活動の親様を“南無阿弥陀仏”と落ち着きますわね。
ま、言えば、病気しておっても、又何時死ぬか、“南無阿弥陀仏”と。
そういう世界をお任せ、と言うているんでしょうから。

 
金光  そこのところを永遠の命、活動なさっている大宇宙の生命というのを、また表現を変えると、無量寿という言葉で使えることもあるわけですね。

 
藤原  そうです。
初め、それですから、『帰命無量寿如来』とこう言い切っていらっしゃいますわね。

 
金光     無量寿の国より生まれ無量寿
           弥陀のみ国に帰り給えり

 
これは、どなたかが亡くなられた時のお歌かと思いますが、
その帰り給えりと、いう言葉がついておりますので、

 
藤原  松崎さんとかいう女の人に、

 
金光  松崎さんについては、
 
     日ねもすを床に臥(ふ)すとも三世十方
       仏の邦(くに)に遊ぶ君かも
                      (松崎姉に)

 
という歌がありますね。
これは「松崎姉に」という、註釈がついておりますが、
日ねもすを床に臥すとも 仏の邦に遊んでいらっしゃるという、
これは大した心境といいますか、その辺のところが、分かってくると、

 
     無量寿のいのち一つと知らされて
       今はやすけしわれも宇宙も

 
というような歌もあるわけですが、その松崎さんという方も、やっぱり宇宙と一つところで、宇宙の働きと一つになっていらっしゃる。
そういうことでございますね。

 
藤原  そうですね。それだから、安らかにおれるわけです。

 
金光  みんな今いるそこが天上天下唯一のお与えの場所であると、

 
藤原  そうです。唯我独尊と言うと、人と比較して言うているのでないです。ああ、このまま仏様のお手の中におるという境地でしょうね。

 
金光  現在、ここがその人にとっての、唯一のお与えの場所であると、
そういうことでございますね。

 
藤原  そうですね。

 
金光  それがお念仏の世界であると。どうもありがとうございました。

 
藤原  どうも。失礼しました。         
                            おわり
           (平成八年十一月十日「こころの時代」より)



       無量寿の国より生まれ無量寿
           弥陀のみ国に帰り給えり


いのちのふるさとへ還った郁代に出会わせていただき、
有り難いことでした。


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