凡夫のわたしがすることは



「あのようなひどい仕打ちをされたことが許せない」
親族との関係で今も苦しい・・・と、
病気の息子さんを亡くされたお友達が、お葉書をくださいました。
このような句が書かれていました。

  
     わが心 深き業あり この氷塊 
      人知、自力では 解けじと思う


その後訪ねてこられ、
「聞法を続けているが 憎しみはなくならない」
と嘆かれました。


今日くださった葉書には、      
「煩悩をなくしようと思わなくてもいいんじゃない?
そんな私であることを、ありのまま頂きましょうよ」
・・・あなたの、この言葉に安らぎをいただきました。
と、書いてありました。


「娘の病気中、誰にも話せないような修羅場が、私にもあったのよ。
これからも悩みや、苦しみはなくならないと思うよ」
「でもね、胸に手を当てると、私自身が恐ろしいもの持っているからね」
と、その時私は話したのでした。


「郁代には心ないことをして、傷つけたなあ」
「あの時、こうすればよかったなあ」
今も悔いることばかりです。


それでも、母を許してくれ、
「生んでくれてありがとう」と書き遺してくれたのは、
郁代もまた、
「自分は許されて、生かされていた」
との光に照らされていたのだなあ、と知らされるのでした。


たまたま、全休さんが
「わたしがすることは恐ろしい」と、書かれていました。 

・・・・・
蓮如上人は、
  「仏法を聞く身となった上は、
  凡夫のわたしがすることは
  一つ一つが恐ろしいことなのだと
  心得なければならない。
  すべてのことについて
  油断することのないよう心がけなさい」と、
  折にふれて仰せになりました。
                     (御一代記聞書102条)


 あなたは、自分の心が恐ろしいと思ったことはあるだろうか。
恥ずかしくも人の幸せを妬み、
醜くも人の不幸を見ては当然の報いだと内心深く喜ぶ。
そんな醜くも浅ましい心という現実がある。


 実は、わたしは、もっともっと恐ろしいことを、
口に出しては言えないことを考え実行しています。
あなたもそうに違いない。
信心をいただくと恐ろしい自分の心が見えてくる。
・・・・・



『あなたもそうに違いない』が、やさしく心にしみました。
“恐ろしい自分の心が見えてくる”
ここが、一番心の落ち着く居場所です。
ありがとうございました。