生きる物語:伝わる思い 6 


生きる物語:伝わる思い 6 
          毎日新聞 2013年09月10日 東京朝刊より

5年ぶり、食の喜び

 「唾液も飲み込めなさそうだし、食べるのは無理だね」。
2009年10月ごろ、遷延性(せんえんせい)意識障害で入院中だった上野文夫さんの妻広美さんは、当時の主治医に告げられた。

 上野さんは事故後、腹部につなぐ管から栄養をとる胃ろうに頼ってきた。
患者会の学習会で重度障害者向けの口腔ケアを知り、
「食べることによって味、においなどの五感を刺激したい」
と願っていた広美さんは、肩を落とした。

 それでもあきらめなかった。
11年9月に在宅介護を始めると、患者会で知った東京医科歯科大の戸原玄(はるか)准教授に協力を依頼。今までの医師と違い、
「唾液の飲み込みを待っていたら一生食べられない。訓練しましょう」
と、訪問歯科衛生士の十時(ととき)久子さんを紹介してくれた。

 十時さんのケアは、その年の暮れから始まった。
何もしないと舌はのどの奥に落ち込み、飲み込みに使う筋肉も動かなくなる。
毎週、専用ブラシで舌や頬の内側などのストレッチを繰り返した。

 12年春、どんなものが食べられるか確認する内視鏡検査を受けた。
十時さんが薄く切った小さなゼリーを上野さんの舌に置くと口がもぐもぐ動き、ゼリーのかけらが食道に運ばれる様子をモニターで確認できた。
5年ぶりの「食事」に、広美さんは胸が熱くなった。

 ゼリー一口だった「食事」は、袋状の茶こしに入れたスナック菓子をかむ練習などを経て、今はミキサーで液状にした物を、一日1回食べられるようになった。
マグロの赤身としょうゆ、かゆをミキサーにかけたものを、
「大好きなマグロよ」
と広美さんが口に運ぶと、小さな茶わん1杯分を勢いよく平らげる。

 十時さんは
「食べ始めてから、喜怒哀楽が出るようになった。
自分の意思を伝えようとする気持ちが強くなった」と話す。
好きなものには「もう一口」と言うように口を開ける。
好物のから揚げでも2日続けて出すと、しかめっ面になる。
「大変だけど、家に帰って良かった」。
広美さんはそう実感する。

 ◇上野さんの介護
毎晩のヘルパー、週3回の訪問看護、口腔ケアのほか、医師の往診、マッサージ、入浴サービスなどを利用する。

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