おばあちゃんから教えられる 3

何度もお聞きしたことがある、松本梶丸師のお話の続きです。
圓光寺様 には、快く転載を了解してくださり有難うございました。

おばあちゃんから教えられる 3

山崎ヨンというおばあちゃんが、
「自分を見る目は相手を受け入れる目や。自分のことは自分で見えんもんや」
と言った後に続けて、
「自分を見るときゃ、如来さんのまなこいただかんと見えんもんや。
このまなこいただくと、むこうさんと変わらん同じもんがここにおるだけや」

なんでもない言葉ですが、皆さん大きいじゃないですか。
如来様の眼をいただくと、
何かありがたい世界がわかるんじゃないということです。
向こう様と変わらない同じ者がここにおるだけや。
それが「も」という世界です。
「この眼いただくことが一番大事なことなんやけれども、
人間はその一番大事なことを忘れて生きておるのやね」
と、おばあちゃんは言うのです。

平凡なおばあちゃんの言葉ですが、
苦しみのどん底の中で如来様の言葉をいただいた言葉の確かさです。
頭で言っているわけではない。
解釈で言っていないんです。

苦しみ悲しみのどん底の中で、身体で聞いてきた仏法です。
そこから言葉が生まれるんです。
如来回向(にょらいえこう)です。
真実というものは回向してくるんです。
私が真実をつかむんじゃないんです。
真実が私のはからいに関わりなく、向こうから来て下さるんです。
そのはたらきが光明名号(こうみょうみょうごう)です。
そのはたらきを通して、今を忘れて生きている我々に、
今という時を与えて下さる。

曽我先生はおっしゃいました。
南無阿弥陀仏という言葉を現代の言葉に直せば、
なるほどそうかという世界だ。
なるほどそうかといううなずきを知っている人は、
広い道を悠々と歩いていくことができる。
なるほどそうかといううなずきを知らない人は、
狭い道を肩をいからして歩いていかなければならない」

命が真実の言葉に触れた時が、念仏申さんと思いたつ心のおこる時です。
曽我先生のお言葉によれば、
「ああ、そうであったな」
これが転換なんですよ。

そんでも、そやけど、あいつが、こいつが。
こういうことばかりしていた世界が、真実の言葉に触れると、
なるほどそうやったなあ、という世界に転換するんです。
足元に連れ戻すんです。
我が身というふるさとに帰るんです。
ふるさとへ帰らずして、心が安んずることはありませんね。
ふるさとへ帰れよと言っているんです。

「念仏申さんとおもいたつ心のおこる時、
すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」

摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益(りやく)が人間の求めている一番深い利益だと、
私は思うんです。
誰でもがいただける利益だけれども、みんなが忘れている利益です。
「摂取の光明見ざれども」
と、ありますが、如来様の智慧の光に出遇って、
ただ今のこの我が身が照らし出されると、
直ちにこれでよかったという世界が誕生するんです。

これでよかったという自信ほど、深い自信はないですね。
その他にこれでよかったと言えるものが、この世の中にあるでしょうか。
信の一念をいただくんです。
私たちが聴聞する時、聴聞の御縁を通して、
一念、ああ、という世界です。
こんな短い世界ですけれども、聞くというのは一念です。

田舎のおばあちゃんはこうおっしゃいます。
「一念とゆうたら、今のひとおもい。ありゃあといただく世界や」

おばあちゃんから教えられる 1
おばあちゃんから教えられる 2

繰り返しお聞きした“歎異抄第一章”、師のお声が耳に残っています。
 「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて
  念仏もうさんとおもいたつたこころのおこるとき、
  すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」