「美しい諦念を握り締めて生きる」

「美しい諦念を握り締めて生きる」
 郁代の姿が思い出されてなりませんでした。

かっこちゃんのメルマガ第1564号
宮ぷーこころの架橋ぷろじぇくと(2013年11月16日)より、引用させていただきます。

一年前の中日新聞のコラムに下のような記事がありました。
・・・・・・
中日春秋 2012年11月5日

<てのなかにうつくしいていねんをにぎりしめて 
いきていこうとおもう。
うつくしいていねんは しんじつそのものです。
くるしみのなかで ひかりかがやいています。>

「美しい諦念を握り締めて生きる」
この言葉を書いたのは十五歳の少年だ。
臼田輝(ひかる)君は一歳になる直前、都内のマンション五階から落ちた。
動くことも、話すこともできなくなった。
母の真左子さんは「心も身体も毀(こわ)れてしまった」と思った。

数年たって、彼の目が輝く瞬間があることに気づいた。
鏡を覗(のぞ)き込むように瞳を見つめなければ、気づかない光だ。
十三歳で指先の微細な動きでひらがなを表示する装置に出合い、
光は言葉となった。

<へいわがくればいい
うちゅうがえいえんに じかんのあるかぎり
いつのひか ちいさないのちがうまれて 
そだっていくように>

その言葉に、みんなが驚いた。
真左子さんは言う。
「やっと命をつないで生きている子どもたちは、
喜びと悲しみは隣り合わせだと知っている。
輝もすべてを受け入れていたのでしょう」

<てのなかにあるしんじつは さいわいそのものです。
のぞめばいつでもてにはいりますが だれもこのことはしりません。
なぜならにんげんは つねにらくなみちのほうをこのむからです。
いきるということは
くなんとなかよくしてゆくことなのです>。
輝君は十六歳で天に召された。
・・・・・・

この記事は多くの方の心をうちました。
柴田先生がかかわられた輝くんの「美しい諦念を握り締めて生きる」の詩の
全文は以下です。
・・・・・・
しょうねんの のこした ひかり 

てのなかに うつくしいていねんをにぎりしめて 
いきていこうとおもう 
うつくしいていねんは しんじつそのものです 
くるしみのなかで ひかりかがやいています

へいわがくればいい うちゅうがえいえんにじかんのあるかぎり 
いつのひか ちいさないのちがうまれて そだっていくように

てのなかにあるしんじつは さいわいそのものですが
だれもこのことはしりません 
なぜならにんげんは つねにらくなみちのほうをこのむからです 
いきるということは くなんとなかよくしてゆくことなのです

あめつちひろく よきしらせがひろめられ 
きりのないあらそいごと このよのなかからきえるようにねがう 
かんどうとにんたいをもって きたいしていれば 

いつか きたいどおりになるとしんじて いきていこう 
よもすえというかんがえかたは まちがっていて 
かのうせいにかけるべきです 
にんげんのことを あきらめてはいけないとおもいます 
よきひ よきときにめぐりあうことを しんじよう
・・・・・・

輝さんの詩を読むと、私は心がしーんとするような気持ちになります。
静かな美しい中に身をおけるような気持ちがします。
柴田先生があるときおっしゃいました。

「僕は新しい出会いがあってその方との会話をしようとするときに、
これまでに出会った人がそばにいるのを感じる。
その中には宮田さんもいたりする」
きっと輝くんも、
いつもたくさんの方の思いの応援をされているのだろうなあと思います。

私はこの感覚がなんとなくわかるように思っています。
人は深いところでつながり、いったんつながると、
そこに心を飛ばしやすくなり繋がりやすくなる。
心の深いところで、人はみんなつながりあっている。

今、柴田先生と私の共著が進んでいます。
私は、人はみんな無意識の領域でつながっているんだと思っていて、
それでも、一人一人の個人の無意識の領域もあり、
そこから、私たちは思いをくみ出していると考えています。

柴田先生との本は、どんな本になっていくでしょう。
私はまだ柴田先生の文章を読ませていただいていないのですが、
どんなふうにつながっていくのかをとても楽しみにしています。

土日の岡山では指談をしっかりとみなさんにお伝えするつもりです。
体当たりのお優さんも来てくださいます。
サッカー少年のまーくんや華ちゃん、
たけちゃんやたけちゃんのご家族も一緒です。
みなさんどうぞしっかりと指談を習得されてくださいね。

かつこ