心に吹く風(6)

親鸞 完結編   五木寛之・作 
    178回 心に吹く風(6)

唯円との会話が続いています。

(前略)
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「浄土にうまれる、というのは、死んで極楽へいくという意味ではあるまい」
親鸞はややつよい口調になった。
「それは、闇の中にいた自分が、光のなかにでてくるということだ。
これまでの自分とちがう、あたらしい人間に生まれかわるのだ。
死んだあとのことなど、わたしにはわからない。
しかし、比叡のお山を下りて、やがて法然上人の念仏の教えにであったとき、
わたしの前にあたらしい世界がひらけたのだ。
希望をもって生きていくことができると思った。
私はそのとき、たしかに生まれ変わったのだよ。

浄土とは、光の国のことだ。
絶望のなかにいた人間が、希望の光に出会う。
浄土にうまれるとは、そういうことだ。

しかし、人は迷う。
心細くなるときもある。
だから念仏にはげまされる。
それを信という。
信じるということは、迷信ではない。
人に勇気とよろこびをあたえるものが信なのだ」

「迷信と、信は、どうちがうのですか」

「迷信は、人をおそれさせるもの、迷わせるもの、心細くさせるものだ。
あれをしてはいけない、これをしてはいけない、とうるさくいう。
しかし、信にはそれはない。わたしはそう思う」

「そうでしょうか」
と、唯円はいった。 
・・・・・

仏教ブログ〈聞其名号信心歓喜〉で出会った、親鸞の言葉が響いてきました。

 
   「出離の縁あることなき身」とは、救われない身であるということです。
   救われない身であるとわかった、そのことが救いであったというのです。
  
   「そくばくの業をもちける身にてありけるを、
   たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」
   と、親鸞はその喜びを表白しています。

有難うございました。