悪性さらにやめがたし
以前、米沢英雄師のお話をよく味わわせて頂きました。
最近しきりに思い出されます。
仏と離れて密着する
米沢英雄
仏というのは、仏がおるわけでなく、仏の教えがあるわけです。
ですから、仏の教えを聞いていくと、だんだん仏の心がわかってきて、
ここで仏と凡夫(ぼんぶ)が遇うんです。
そして自己に目覚めたところで、これを信心を得たといい、
禅なら悟りを開いたということです。
仏と凡夫が一体となる、つまり、仏凡一体というわけです。
ところが、親鸞の信仰というのは、ここから離れていくんです。
一度、一体になって、ここで踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)があるわけですけれども、
ここから、また離れていく。
凡夫はどこまでいっても煩悩が止むことはないので、
それにつれて、いよいよ離れていく。
そして、仏と離れていくけれども、離れれば離れるほど、
仏と非常に密着してくる。
これを、西田幾太郎先生が、絶対矛盾の自己同一、と言われたんです。
親鸞というのは
悪性さらにやめがたし、心は蛇蝎(だかつ)のごとくなり、と言うているほど、
仏に非常に近い。
仏の教えを聞く前は、自分が、悪性(あくしょう)さらにやめがたい、
なんてことはわからないばかりか、
自分ほど善いものはないと思うているのが凡夫なんです。
ところが、仏法を聞いていくと、
自分は、罪悪深重(ざいあくじんじゅう)・煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の凡夫だということが分かってくる。
分かって来て、頭を下げた。
頭を下げたところで、仏と凡夫がひとつになった。
そして、それからまた、だんだん離れていく。
離れていく、というところが、親鸞の信仰の特徴でないかと思うんです。
仏と非常な距離がある、絶対、仏になれん、という人が仏になっている。
こういう絶対矛盾の自己同一、それを身をもって証明しているのが、
親鸞の信心というものでないかと思うているんです。
仏に会うているからこそ、自分は悪人だということがわかるんです。
仏といつも一緒におったということが、悪性さらにやめがたし、
ということを自分に言わしめた、と思うんです。
悪性さらにやめがたいやつや、ということが、
仏に照らされている、ということを証明しているのでないか。
そういうところが機微というか、非常に微妙なところで、
そこが分かりにくいところ、誤解されるところだと思います。
教えを聞くことによって、いかに自分が自分を甘やかしているか、
自分を撫でまわしているかが見えてくる。
自我が生きているということが見えてくる。
そういう自分が見えてくると、自分はあさましいなあ、自分さえよければいい、という自我にふりまわされて生きているのやなあ、
ということがはっきりしてくる。
そういうことが、仏の光に照らされて、というか、人間を超えた知恵によって、自分が見つめられている、ということなんで、それが実は救いなんです。
自分がはっきり見えてくると、人間は非常に謙虚になることができる。
謙虚になる者には一切が与えられる、ということです。
息しているだけでありがたい、飯一粒にあたるだけでありがたい、
ということになりますと、
家族の者から、全ての人たちから、支えられて生きている。
こんなろくでなしを、よくみなさんが大事にして下さる、
というような非常に謙虚な心があらわれる。
そんな風に言うたら、これは非常に消極的なことのように思われるかもしれないけれども、実はこれが一番の積極道であります。
宇宙中を自分のものにすることができるんです。
自分のものにすると言うても、宇宙はわが物や、と言うんでなくて、
宇宙中を拝むことができるということです。
天地一切を拝むことができれば、その人には、天地一切が与えられる、
ということが言えるんでないでしょうか。