宮ぷー退院おめでとう

かっこちゃんのメルマガ第1791号
「宮ぷーこころの架橋ぷろじぇくと」(2014年7月1日)には、このように書かれていました。

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昨日は無事に退院をすることができました。
なんだか本当に感慨無量です。
いつか必ず退院できるよ。
そう言い続けることは、いつか宮ぷーの夢というよりも、
チーム宮ぷーの夢というか、近い現実なのだとそういう思いでいました。
でもそれが本当になって、すごくうれしいです。
病院の先生も師長さんも、みなさんがおめでとう、
しっかりがんばってくださいねと宮ぷーに声をかけてくださいました。
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宮ぷー、かっこちゃん、チーム宮ぷーのみなさん、
退院おめでとうございます。
これからも続く長い道のりを
「僕の後ろに道はできる」を目指して乗り越えていってくださいね。

平成21年の2月20日、宮ぷーは脳幹出血で突然倒れ、
当初は3時間の命、それが過ぎたとしても3日の命だといわれました。
かっこちゃんのゆるぎない信念による介護もあり、意識が回復、
今後はデイケアを利用しながら、ヘルパーさんの介護や、
チーム宮ぷーのサポート体制によって、
自宅で暮らすことになったのですね。

ここで、メルマガの生い立ちから引用させていただきます。

◆宮ぷーが、宮ぷーと呼ばれる理由
私、山元加津子は、特別支援学校に勤めています。(今年3月で退職)
そして、作家もしています。
学校で出会った子どもたちのことが大好きで、
いろいろな方に知っていただきたくてたまらなくて、
本を書いたり、講演会でお話をさせていただいたりしています。

そんな私ですが、あまりに方向音痴でおっちょこちょいのために、
どこかへ出かけるときに、ちゃんとたどり着けなかったり、
何かいつも、忘れたりということが、しょっちゅうです。
そのために、県外では、小林さんという方がサポートをしてくださって、
県内では、私が前に勤めていた学校で一緒だった、宮田俊也さんという方がサポートをしてくださっていました。

 宮田さんは、子どもたちに宮ぷーと呼ばれていました。
みんなが絵本の『くまのプーさん』が大好きで、
そして、宮田先生のことも大好きで、かなちゃんという女の子が、
「くまのプー。くまのプー」という歌を同じメロディで
「みやたっぷー、みやたっぷー」と歌いだしたことがきっかけで、
宮田さんのことを、だれもが宮ぷーと呼ぶようになりました。
そして、私もそう呼ぶようになりました。

◆宮ぷーが倒れた
 その宮ぷーが、平成21年2月20日に、脳幹出血で突然倒れたのです。
私は脳幹出血という言葉を聞いても、いったいどんな病気か知りませんでした。

あとで、本やインターネットで調べると、
「脳幹出血の80パーセント、100人おられたとしたら、80人の方が亡くなり、
残りの20人のうちの、また80 パーセント、
すなわち16人の人が意識がもどらないと書いてありました。
なんと100人のうち、意識が回復するのは、統計的にたった4人というとても深刻な病気だったのです。
脳幹の出血の度合いも、少ないものから多い人までさまざまです。

けれど、宮ぷーの場合はとてもとても大きな出血でした。
当初は、3時間の命、
それが過ぎたときは3日の命だというお話でした。
宮ぷーに付き添っていられる家族は、
赤ちゃんを産んだばかりの妹さん、ただ一人でした。
それで、妹さんは昼間、赤ちゃんを連れながら付き添われることになり、
私は、学校が終わってから、病院へ通うという毎日が始まりました。

◆「宮ぷーはだいじょうぶです」
夜に集中治療室にいると、お医者さんが来て、声をかけてくださいました。
「妹さんに聞かれたと思うけれど、今夜が山です。
もし、山を越すことができたとしても、一生植物状態だし、
一生体のどこも動きません」
と言われました。
実は、宮ぷーは驚くほど大きな出血で、非常に重篤な状態でした。
ですから、お医者さんが言われたことは、無理のないことだったのです。

 けれども、知らないということは本当に怖いものなしだなあと思います。
私はなぜかそのとき、
「だいじょうぶ。宮ぷーはだいじょうぶだ」
という思いがして仕方がなかったのです。

それで、「だいじょうぶです」と言いました。
お医者さんは不思議そうな顔をされました。
そばにいる私のショックを少しでも少なくしようと思われたのでしょう。

とてもやさしくゆっくりと私の顔を覗き込んで
「僕の言っていることがわかる?」
と言われました。
私は逆に、こんなにも心配してくださっているお医者さんを安心させたくて
「はい、わかります。先生、だいじょうぶ。
だいじょうぶですから先生安心して」
と言いました。

そんな状態ですから、お医者さんは次の日に、妹さんに
「一緒にいた女の人はショックで頭がおかしくなっていたようでした」
と私を心配して言ってくださったほどでした。

◆宮ぷーの大変な状態
 けれども、宮ぷーは決してだいじょうぶなんかではありませんでした。
脳幹という場所は、人の生きるということを司る場所なのですね。
宮ぷーの瞳孔は開きっぱなしで、舌が口から出て中へ入りませんでした。
息もしていなくて、人工呼吸器がつけられていました。

 私はそれまで、熱ければ人はだれでも汗をかくのだと思い込んでいました。
けれど、宮ぷーは汗をかくこともできずに、体温がどんどん上がっていきました。
私は体に水分を入れれば、
たとえ、オムツの中であってもおしっこは出るのだと思っていました。
けれど、おしっこも出なかったのです。
なぜなら、宮ぷーの内臓はどこも機能していなかったのです。
けれど、お医者さん、看護師さん、介護士さんといったみなさんが、
本当に心を尽くしてくださって、宮ぷーは生きることができました。

 私は宮ぷーのそばにいて、いったいどうしたらいいかわからず、
たくさんついた管の間から手を通して、
「生きて生きて」と言い続けました。
そして、息をするごとに祈り続けました。
そして、宮ぷーのために、たくさんの方が祈り続けてくださいました。

私は特別な宗教を信じているわけではありません。
けれど、神様は必ずいて、私たちを守っていてくださるんだということを、
宮ぷーが倒れてからいっそう思うようになりました。

◆宮ぷーが目を開けた
 8日目に宮ぷーの目が開きました。
私はうれしくて、お医者さんや看護師さんに
「目が開いた、目が開いた」
とお話をしました。
けれども、宮ぷーの脳のCTは、
例のないほど大きな出血であることを示していました。

そして宮ぷーは、ときどき反射でどこかが動くことはあっても、
声をかけても、ゆすっても、体のどこも動かせず、
眼球すら、動かすことができないままでした。

 お医者さんは本当にやさしい方でしたので、
またゆっくり言葉を選ばれるようにして
「残念ながら、なぜか、植物状態の人は、
昼間目を開けて、夜は目を閉じるのですよ」
とおっしゃいました。
それでも私は、自分があのとき、
だいじょうぶだと思ったからだいじょうぶなのだという、
何の根拠もないことなのに、そう思い続けていました。

 宮ぷーはいつか意識を取り戻すのだから、
そのときに、意識のない間のことを知りたいに違いないからと、
毎日日記を書き続けました。
そして、宮ぷーの開いた目に私の姿を映しこんで、日記を読み続けました。

そのとき、また私の思い込みだったのかもしれないのだけれど、
私が話しかけると、眼球も動いてないけれど、
確かに、目の光の様子が違うと思いました。

宮ぷーは目の玉も動かないけれど、
何もかもわかっているのだと感じました。

◆宮ぷーの思いを知りたい
 私はずっと特別支援学校に勤めています。
そこで、子どもたちといて思い続けてきたことは、
子供たちがたとえどんなに重い障害を持っていたとしても、
だれもが気持ちを持っていてそれを伝えようとしているということでした。

そして、子どもたちの気持ちを知りたいと思いながら、
毎日を過ごしてきたように思うのです。

 宮ぷーの目の光が、話しかけると確かに違うと思い込んだ私は、
思いを伝えられずにいる宮ぷーの思いをなんとしても知りたい、
お互いに気持ちが伝え合えるようになりたいと思いました。

どこか、宮ぷーが気持ちを伝えてくれるところはないか?
 私の問いかけに、返事をしてくれるところはないかとずっと探し続けました。

指でもいい、瞬きでもいい、頬の動きでもいい、
どこでも、一箇所でも自分で動かすことができたら、そこに私は、
「“はい”だったら、動かして」
と話をすることができると思ったのです。
それは、なかなか難しいことでした。

けれど、宮ぷーが頑張り続けてくれたことがよかったのでしょうか?
 思いを知りたいとあきらめずにいられたことがよかったのでしょうか

宮ぷーが、最初は小さなまばたきで、
そして、頭が動くようになり、
指が動くようになって、気持ちを伝えてくれるようになりました。

項目は次のように続いています。
◆「僕の毎日を知ってほしい」という宮ぷーの思い
◆「宮ぷーこころの架橋ぷろじぇくと」が始まる
◆意思を伝達する方法を世界中の人が当たり前に知っているように
◆レッツチャットについて
上記内容は
メルマガの生い立ちから読むことができます。