台湾の烏山頭ダム
郁ちゃん、
あなたと同じ高校へ通っている孫のSちゃんが、修学旅行で台湾へ行くようです。
「ナナちゃん、行ってくるね」
と、あいさつに来ました。
烏山頭ダムの見学や、現地高校生との交流もあるようです。
台湾南部の15万ヘクタールの土地を灌漑して、
百万人の農民を豊かにした烏山頭ダムの建設者として、
最近見直されている八田與一技師は金沢市出身です。
八田與一 台湾の教科書に載っている日本人の物語
八田與一は1886年、金沢市に生まれ、東大・土木工学を卒業後、
24歳の時(1910年)に台湾総督府内務局土木課の技手としてつとめた。
当初は衛生工事を担当していたが、28歳からは水利事業を担当、設計工事の責任者として桃園の水利事業以降は第一人者として技師として認められることになった。
56歳で亡くなるまでほぼ全生涯を台湾に住み、台湾のために尽くした。
彼は、当時アジア一といわれた烏山頭ダムと1万6000キロにおよぶ灌漑用水路の建設(1920年着工10年を要した大規模土木事業)にあたり、
人情味のある現場責任者として農民に慕われた。
「烏山頭は大きな工事であり困難も伴い時間もかかる。
働く人たちが安心していい仕事ができるために家族が一緒じゃないといけない。」
と八田與一は主張した。
そして工事が始まり、家族を含め2000人にもなるひとつの街ができた。
工事関係の施設はもちろんのこと、家族も住める宿舎や共同浴場、
商店や娯楽施設(テニスコートや広場)、さらに学校もできたのだ。
嘉南平野はサトウキビすら育たなかったといわれる。
八田與一が建設したダムと1万6000キロにおよぶ網の目のような用水路のおかげで台湾最大の穀倉地に変わった。
嘉南平原の隅々にまで潅漑用水が行きわたるのを見とどけてから、
八田與一は家族とともに台北に去った。
八田は太平洋戦争の最中の1942年、陸軍に徴用されてフィリピンに向かう途中、乗っていた船がアメリカの潜水艦に撃沈されて、この世を去った。
(その遺骸は、操業中だった山口県の漁船によって、偶然網にかかり引き上げられた)
3年後、戦争に敗れた日本人は一人残らず台湾を去らなければならなくなった。
烏山頭に疎開していた妻の外代樹(とよき)は、他の疎開先から戻ってきた子息と会った日の深夜(9/1)に、夫が心血を注いだ烏山頭ダムの放水口に身を投げて後を追った。
享年46歳であった。