医学論文に載った手紙 1
昨日の続きです。
医学論文「意識障害の成因と神経系脱分極現象」 柳本広二の後半には、
山元加津子さんのメルマガに寄せられた患者家族からの感謝の報告が載っています。
【植物状態患者の我が国での実態】より
2013年に公開された「僕のうしろに道はできる」(岩崎靖子監督)は、
42歳で重度脳幹出血を発症し、
生死をさまよった後に意識を回復することができた特別支援学校教諭、
宮田俊也先生の経過を追った文部科学省特選、自主上映・ドキュメンタリー映画です。
その中に登場する宮田先生の元同僚、
山元加津子先生(石川県、特別支援学校教諭、エッセイスト)は、
極めて共感力が強く、親しかった宮田先生の妹さんの切なる依頼もあり、
介護とリハビリのため、自らの仕事後の、日々の病院通いを入院直後より開始しました。
支援者らのアドバイスによって日々の様子をメールマガジンによって発信し始めたところ、宮田先生の目覚ましい回復ぶりが、新聞テレビで取り上げられるようになり、
下記のようなメールが“次々に”山元先生(かっこちゃん)の元へ届くようになっています。
許可を得て、寄せられた手紙の一部を紹介します。
〈ある読者から〉
「山元さん、僕は深い憤りと、やるせなさと、そして、それでも、
大きな希望と、何をどうしていいかわからないとまどいの中にいます。
山元さんの言われる通りでした。
娘の名前を呼び、順子に
「さあ、指を動かそう、父さんに指を動かすところを見せてくれないか」
と声を掛けてみました。
今も心が震えます。
順子が僕の呼び掛けに応じて、細く可愛い指を動かしたのです。
目の前に起きていることに、喜びと、深い後悔の思いが広がりました。
娘を抱きしめて、謝り続けています。
「指を動かして見せて」
ただそれだけのことを、僕たちは気が付きもせずしてこなかった。
ただ、「指を動かしてごらん」と声を掛けるだけのことを。
順子は、6年という年月を、どんな思いでいたのでしょう。
医者が言いました。
順子は遅延性(遷延性)意識障害だと。
物が見えたり、聞こえたり、考えたりはできると。
植物状態とはまた違いますが、同じですと
。
私たちは何が違って、何が同じなのかを聞こうともしませんでした。
順子は、そばにいる親にも、何も分かってもらえずに、
その優しさがゆえに、あきらめ、
私たちを大きな愛で許し続けてくれたのだと思います。
順子はこれまでも、表情こそ変えませんが、
時折、大きな目からは涙が流れていました。
順子の涙の意味がわからず、目が痛いのだろうか、苦しいのだろうかと
娘の涙を理解していたけれど、それはおそらくは、
自分の思いを知ろうとせずにいる悲しみの涙だったでしょう。
あるいは、あきらめ、そして、焦燥、絶望の涙だったかもしれません。
僕自身に責任があるはずなのに、
どこかにその責任を転嫁したい思いが抑えられません。
なぜ、誰も教えてくれなかったのか?
なぜ、娘は6年ものあいだ、
私たちに合図を送り続け、助けを求め続けていただろうに、
それが徒労に終わっていたのだろうかと、誰かを責めたくなる。
山元さん、6年はあまりに長いです。
中学生だった順子が、成人しました。
友達は大学へ通い、仕事についた子もいます。
けれど、順子は静かに時をすごしていました。
それが僕たちのできる精いっぱいだと思い込んでいました。
しかし、山元さん、言い訳にしか聞こえないかもしれませんが、
僕たちは順子を愛してきました。
でも、愛しているだけでは、わからなかったのです。
僕たちは、今まで一日中話しかけてきました。
それなのに、娘からの返答としての動作を求めることをしてきませんでした。
山元さんは順子のそばにいたわけではないのに、
娘が声かけで指を動かす可能性のあることを信じ、
助言をしてくれましたね。
山元さん、
それが山元さんの言う、意思を伝える方法を探すことなのでしょうか?
でも、これからです。
僕たちには光が差してきました。
東京新聞は(注:山元さんの記事が載っていた)、
実は愛読をしているわけではありません。
販売店が置いていってくれたのです。
そこに、神のご意思を感じます。
かっこちゃんが(これからはそう呼ばせていただきます)書いていたように、
僕は神を信じようと思います。」
(注:山元さんが用いる「神」とは、特定の神を指すのではなく、
すべての神の共通項を指しているようです)
明日は手紙2へ続きます。
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