生死を生きる

妹家族の葬儀会場は「オークス」で、
最後のお見送りの時流れていたのは、「あれっ、あの曲だ」・・・
映画「おくりびと」のテーマ曲でした。

映画の原作ともいわれる「納棺夫日記」は、
青木新門さん(現在「オークス」非常勤顧問)が葬儀の現場に携わっていたころの体験を綴った小説です。


以前書いたのですが、Eテレ「こころの時代」
青木新門さん「生死(しょうじ)を生きる」より

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しばらくして、あの「親族の恥」と言った叔父が末期癌で入院していることを知りました。
 私は「ざまあみろ」と思っただけで見舞いには行きませんでした。
しかし数日後、母から
「意識不明の危篤で、今晩か明日が峠だって、あなたは世話になったのだから今日中に顔を出してあげて」
と泣き声で電話がありました。
母の泣き声で行こうと思ったのではなかったのですが、
意識不明なら行ってやろうかと思ったのでした。
父も母もいない少年時代に父親代わりのように育てていただいたことなど恩にも感じていなかったのです。
「親族の恥」と罵られたことだけが恨みとなって頭にありました。

 身構えて病室へ入ると、酸素吸入器をつけた叔父の姿がありました。
叔母が私が来たことを告げると、震える手を伸ばそうとするのです。
私はその手を握りながら、叔母が用意した椅子に座りました。
 私は叔父が何か言おうとしているのに気づきました。
そのことを叔母に伝えると、叔母は酸素吸入器を外して、
耳を近づけていました。
叔父の顔は、私を罵倒した時の顔とは全く違う顔でした。
安らかな柔和な顔でした。
目尻から涙が流れ落ちていました。
叔父の手が少し強く握ったように感じたとき「ありがとう」と聞こえました。

その瞬間私の目から涙があふれ「叔父さん、すみません」と両手で叔父の手を握って土下座していました。

その後も叔父は「ありがとう」をくり返していました。
その顔は清らかで安らかでした。
私の心から憎しみが消えていました。
ただ恥ずかしさだけがこみ上げてきて、涙がとめどなく流れ落ちました。
泣きながら帰ると、まもなく叔父は死んだと連絡がありました。
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 生死を生きる 1

 生死を生きる 2
 
 生死を生きる 3 

 生死を生きる 4