中原中也

中原中也ほがらかとは・・・を読んで、以前書いた記事を思い出しました。

金沢ふるさと異人館中原中也展 




       

山羊の歌より 
「汚れちまった悲しみに……」

汚れちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる
汚れちまった悲しみに 今日も風さへ吹きすぎる

汚れちまった悲しみは たとへば狐の革衣
汚れちまった悲しみは 小雪のかかってちぢこまる

汚れちまった悲しみは なにのぞむなくねがふなく
汚れちまった悲しみは 懈怠のうちに死を夢む

汚れちまった悲しみに いたいたしくも怖気づき
汚れちまった悲しみに なすところもなく日は暮れる……


金沢と中也

買物に出かける母に連れられし金沢の歳暮の懐かしきかな(温泉集)

五歳の中原中也が金沢にやってきたのは、号が大正と変わったばかりの1912年、
乃木大正殉死の報さめやらぬ九月のことでした。
一家が、金沢市野田寺町(現寺町)に住んだのは一年半でしたが、
十三歳から始まるおびただしい短歌投稿の母体となっている感覚は、
祖母と父と母と弟の一家が幸せに暮らした金沢の家族生活でした。

昭和七年、小学生のようないがぐり頭に刈った二十五歳の中也は、
忽然と真夏の金沢にあらわれました。
かつて弟と犀川の水の速さを怖れ、
泣きながら通った北陸幼稚園の門前に立ち、
「匂いを嗅ひで歩いてゐるようなものです。
二十年の歳月が流れたとは思へません」
と友人にみずみずしい葉書を送りますが、上京した中也を待っていたのは凄まじい被害妄想と神経衰弱でした。
そのころ、
「僕は溺れペンはくずほれ、
黄昏に沈没して小児のころの幻想にとりつかれてゐた」
と未刊詩に書きつけた幼い記憶とはこんなものでした。

〈僕は自分の中也といふ名前がひどくいやだつたものだがら、
「一郎」と小さな声で躊躇の揚句答へた。
それを「イチオー」と訊ねた方では聞き違へて「イチオーだ」とみなの者に告げ知らせた。
するとみんなが急に打ち解けて「イチオー遊ぼう」と近よつて来るのであつた。
由来金沢にゐるあひだぢゆう、僕の呼名は「イチオー」であった。〉                               (再掲)