吉水の草庵にて (七)
「法螺房どの」
範宴はまっすぐに目をあげて法螺房(ほうらぼう)をみつめた。
「正直に申します。
わたしはこれまで、自分なりに、必死で学んできたつもりです。
きびしい修行にも耐え、僧としての戒も守り、
お山でのつとめにもはげんでまいりました。
しかし、なにを学び、なにをなしとげても、
ついにみ仏に会うことはできなかったのです。
昼も夜も、疑念が雲のごとく心にわいてきて、ついには仏法とはなにか、僧とはなにかということすらわからなくなっておりました。
でも、いまはそんな自分を恥じる気持ちはありませぬ。
うまれたての赤子のような心で最初の一歩をふみだそうとしているのです。
それは学んでえた理ではありません。
わたしはたしかにきいたのです。
これまできくことのできなかった声を。
その声を信じて、歩いていくしかないでしょう。
行者宿報設女犯(ぎょうじゃしゅくほうせつにょぼん)、とは、
たとえ煩悩を断ちきれぬ愚かなそなたであっても、と受けとりました。
我成玉女身被犯(がじょうぎょくにょしんひぼん)、とは、
決して見放さず供に生きるぞ、とおっしゃってくださったのだと思います」
範宴は自分の言葉が、自分の胸のなかで熱く波うつのを感じた。
それはこれまで一度も感じたことのない、ふしぎな心のときめきだった。
体がぶるぶる震え、頭の奥にはつよい光がさしている。
「法螺房どの」と、範宴はあえぐようにいった。
「これは頭で考えてきめたことではありません。
自分の計らいでもないのです。
見えない大きな力、どこからともなくきこえてきた声が、
わたしを吉水へむかわせるのです。
それを運命の声、といってしまえば安易にきこえましょう。
しかし、わたしはいま、
その大きな掌に自分のすべてをゆだねる気持ちになっております。
吉水へいけ、と、その声はいった。
わたしは新しい第一歩を、そこからふみださねばなりません」
法螺房は組んでいた腕をほどいて、両手を範宴の肩においた。
「そうか。自分の計らいではないというのか。
それならそうするしかないのう。しかし・・・」
なにかいおうとしかけて、法螺房は口をとじ、かすかに微笑した。
そしてうなずいた。
「それも、運命かもしれぬ。いけ」
範宴は一礼して、歩きだそうとした。
(3月6日 北陸中日新聞 連載小説)
*註 こうして親鸞聖人は、吉水の法然上人の元へと向かったのだった。
JR金沢駅 「鼓門」(つづみもん)前の雪吊りはずし
(3月5日 北國新聞より)