いつもきちんと生きていました

最近郁代に出会ってくださった方のブログに次のような内容がありました。


・・・・・正岡子規のこんな言葉が書いてあった。

「悟りということは如何なる場合にも平気で死ぬることかと思っていたのは間違いで、悟りということは、如何なる場合にも平気で生きて居ることであった」

しみじみと嬉しくなり、涙が出そうになった・・・・・。


納棺夫日記」の青木新門さんも正岡子規のこの言葉をよくエッセイに引用されていますね。

ここを読んで、
以前書いた、遊雲さんと郁代の最期の姿が思い出されたのでした。
私は次のように書いたことがありました。




「遊雲さん 父さん」著者・有國 智光氏の文章で、
「“死にかけている遊雲”などというのは一回たりともいなかったのです」
「逃げ場のない、遊雲本人にとっての生を“きちんと一生懸命に生きていました”」 
に出会ったとき、
ああ、娘も全くその通りだったなあととても感慨深いものがありました。
このように語っておられます。

 


「死にかけている遊雲」などというのは、一回たりともいなかったのです。元気なときは元気なように、痩せてきはじめたら痩せてきはじめたときのように、いつも遊雲は生きていました。

 最後、私が会ったのは死の2週間ほど前のことです。器用な子だったのですが、持って来た先生からの手紙の封を開けるのに、もうはさみが真っ直ぐに使えませんでした。

そうなのですけれど、
それまでの遊雲と全く変わっていなかったのです。
いつも、その時そのときを一生懸命と言うのでしょうか、楽しく、と言っていいような気がするのですが、生きていた遊雲がいるのみでした。

 その時に自分自身、気がつかされたのです。

そうか、あなたはあなたの、逃げようのない、逃げ場のない、遊雲本人にとっての生をきちんと一生懸命に生きている。
そうならば父さんは父さんの生を生きよう。

そううなづけたときがありました。

 結局、遊雲が自分の病気、がんというものをいくら嫌っても、目をそらすわけにはいかなかったのですね。
こうするか、ああするか、どちらか選べます、という状況であるならば、きっぱりと選ぶ子でした。
「これはいや。こうして」というふうに。

 けれども選ぶことのできないことに関しては、不思議なほど嫌がらない子でした。進んで、と言うとちょっと響きが違うのですが、無用な抵抗をすることなく、すうっとそこに寄り添っていった、そんなところがありました。
                       (「山寺」より)



郁代もまた、他に選ぶことが出来ない、逃げ場のない生を、
最期まで精一杯生きようとしたのでした。

「死にかけている郁代」などというのは、一回たりともいなかったのです。

生きていた郁代がいるのみでした。