吉水の草庵にて  (十)

小説「親鸞」で、五木寛之は、実は自分自身を語っているように私には思えます。

金沢が第二のふるさとと自認する五木さんのお話を何度もお聞きしたり、多くの著書を読んでそう思うのです。



    吉水の草庵にて(十)  親鸞  184   五木寛之


やがて念仏の合掌が静まると、草庵の廊下にいた若い僧のひとりが立ち上がった。
群集に合掌して一礼すると、よくとおる澄んだ声で語りだした。
「・・・いまわたくしたちがとなえましたお念仏、なむあみだぶつ、とは、なんでございましょう。

なむあみだぶつ、とは、南無、すなわち帰命する、ということでございます。
帰命(きみょう)するとは、すべてを捨てて仏(ほとけ)の前にひれふすこと。
なにもかも、すべておまかせてして信じ、けっして迷わない。
その誓いを南無(なむ)というのです。
そしてあみだぶつ、とは、阿弥陀如来(あみだにょらい)という仏さまをお呼びする声。阿弥陀さまは、自分の名を呼び、仏に帰命するすべての人びとを、わが子のようにわけへだてなくすくい、浄土へ迎えようと固く誓われた仏さまです。

身分のへだてもなく、男女の区別もなく、穢(けが)れた人も、罪ぶかき人も、あらゆる人びとを抱きしめ浄土へ導いてくださる、
そのような仏さまこそ阿弥陀仏
その慈悲におすがりする声が、いまわたくしたちがとなえておるお念仏です。
このお念仏ひとつですくわれる。
はかなきこの命つきるとき、だれもが必ず浄土にうまれることができる。
ああ、なんとありがたいことではございませぬか」
人びとのあいだから、自然に熱い念仏の声がわきあがった。



荒けずりで、不ぞろいな念仏である。
しかしそこには、範宴(親鸞)の心をつよく打つものがあった。
それはこの世に生きるすべての人びとの心が、おそろしいほどの深い絶望と不安にみちているということだろう。
ここに集まった人びとは、だれもが死後の自分の行く先をおそれている。
いま、この世に生きるかぎり、人をあざむき、嘘をつき、罪を犯さずには暮らすことはできない。
死ねば地獄へおちる。それしかない。
                   (新聞連載 より抜粋)