さみしかった夏休み

小学生のいくちゃんは誰とでも遊べる子だったから、母が振り返ってくれなくても、寂しくなんかないと、私は勝手に思い込んでいました。
それが間違いだったと愕然としたことがあります。


私の著書「あなたにあえてよかった」に、こんな場面があります。


八歳(三年)の夏休み、八月一日におばあちゃんが入院。
脳梗塞で全身不随だった。
昼はわたしの実家の母が介護し、夜は仕事を終えて駆けつけるわたしと交替した。

その年の四月、当時私が責任者だった田上保育園は新築オープンしたばかりであり、新入園児を抱え、片時も目が離せなく忙しい毎日を過ごしていた。朝、家に寄って洗濯と食事の用意、昼は隣接の保育園で勤務、夜は病院の三点移動がわたしの日課だった。
今日も一日、我が子の顔を見なかったなあと思う日が何日も続いた。

そのころ、いくちゃんに家族との夏休みはなく、いつも私の妹が助けてくれ、海や山、食事へと連れて行ってくれていた。
「いくちゃん、あまり楽しそうでなかったよ。おかあさんがいないから、つまらなそうだったよ」
妹が言うことはいつも同じだった。
あんなに仲良しの、いとこのまきちゃんも一緒なのにと思った時、さみしそうないくちゃんの顔が浮かんだ。
三人の子どもを、私に代わって育ててくれたおばあちゃんは八月二十四日、八十才で亡くなった。眠ったように、安らかに逝った。

おばあちゃんは姫路出身だったから、子どもとの会話も関西弁が多かった。
「ね〜これどうするん?」
「どない?」
「おばあちゃん、学校の帰り、小川でかもが泳いでいたんだよ」
「そうか」
おばあちゃんは、こどもの話を「そうか」と関西風に語尾を上げ、静かに聞いていた。
一方、怒りんぼうの私の言葉は、少しも子供に伝わらなかった。
見えないものを見ようとせず、聞こえない声を聞こうとしなかったからだった。
うまく言えないままの子供の声の方が、ずっと多いことを忘れていたからだった。
おばあちゃんは口数が少ない人で、他人のうわさ話や、悪口を言ったことがなかった。

それから半年も経てから、ふと目にした夏休みの日記帳。
それを読んだ私は、ひっくり返りそうになった。
日記帳でのいくちゃんは、行った覚えのないお母さんと一緒に海や山へ行き、楽しく過ごしたことになっていたからである。


八月三日 お母さんやおにいちゃんと海へいきました。
アイスクリームを買ってもらいました。
みんなでおべんとうをたべたら、とってもおいしかったです。

 八月十七日 お母さん、お父さん、お兄ちゃん、おねえちゃんと山へキャンプにいきました。
川の水はつめたくて、スイカをひやしてたべたら、おいしかったよ。
キャンプはとても楽しかったから、また行きたいです。
  

書かれていたのは、その年の夏休みの話ではなく、昨年に行った家族旅行のことだった。

 「本当はお母さんと行きたかったの」という声が聞こえてきた。
親がいなくても、いくちゃんは外でだれとでも楽しく遊べると思っていたのに…。
近所のお友だちと、朝から晩まで元気に遊べたのは、いつ帰っても、「ただいま!」と言えば「おかえり」とやさしく迎えてくれる、おばあちゃんがいたからだった。
夜には必ず帰ってくるお母さんがいたからだった・・・・・。

「楽しいことが、いっぱいあったのですね」
赤えんぴつで書かれた先生のコメントが胸に突き刺さった。


  
「〝ただいま!〟と帰っても、〝おかえり!〟と答えてくれるおばあちゃんの声が聞けなくなった」
ある日、いくちゃんはさみしそうにポツリと言った。
いくちゃんはまだ三年生だった。
                      (本より引用)


いくちゃん    さみしかったんだね。
あの時は     ごめんね。
いつだって
ふりむきもせず  ごめんね   ごめんね。