選択ということ(九)
選択(せんじゃく)ということ (九) 親鸞 197 五木寛之
「だってすごく簡単なんですもの。仏さまのお慈悲を信じて、ただ南無阿弥陀仏ととなえるだけ。
そのほかのことは、なにもしなくてよい、
ただ、信じて、お念仏をとなえればよいといわれれば、
これほどありがたい教えはないじゃありませんか」
範宴(親鸞)はうなずいた。
仏の光は差別なき光だ。
それが釈尊の第一歩だった。
仏陀は、王とも、貴族とも、武人とも、商人とも、鍛冶屋とも、農夫とも、ときには盗人や遊女とさえ膝をまじえて語りあわれた。
古代の天竺で栴陀羅(せんだら)と呼ばれた最下層の人びとをも差別されなかった。
その事実をまっすぐにみつめれば、女人往生(にょにんおうじょう)は当然のことだろう。
「たしかに法然さまの教えは、簡単だ。
だれにでも、いつでもできることだ。
だが、鹿野(かの)どの。
吉水にこれほど人が集うのは、人の心が不安で定まらぬものだからではあるまいか」
「どういうことでしょう」
「念仏ひとつで地獄へいかずともよい。
浄土に迎えられる、そう教えられて、嬉しやと心づよく思うても、
やはりそれだけでよいのか、本当にすくわれるのか、
と不安になるのが人の常だ。
その疑う心をはげますのが法然さまの言葉ではあるまいか。
それでよいのだ、迷うことはない、と、
あの声できけば信じることができる。
それは法然さまが古今の学問をすべて自分の心に問いかけられて、
一つ捨て、二つ捨て、
最後に残ったのが念仏ひと筋の道であったことを、
みなが感じるからであろう。
選択、とは、
まさにそのことをいわれているのではないか」
(3月22日新聞連載)
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一つ捨て、二つ捨て、
最後に残った郁代の念仏とは・・・・・。
許すこと
感謝すること
「お母さん、完璧やったわ。必要なもの、必要なことが、
いつも直ぐに用意されていたもの…」
「あ・ り・ が・ と・ う・・・」