迫り来る嵐の予感 (十四)
初夏に咲くシャガ 卯辰山にて
「わたくしにとっては、綽空さまこそ観世音菩薩と思われてなりません。
死を覚悟したわたくしに、生きろ、あたらしく生まれ変われ、
と呼びかけてくださったのが、あなたさまでした。
ほんとうに、生きていてよかった…」
「恵信どの」
綽空(親鸞)はおずおずと手をのばした。
恵信の白くやわらかい手がその手に重ねられた。
綽空は生まれてはじめて心の中に温かいものがあふれるのを感じた。
酒に酔って母を殴る父親と、
幼い弟たちを置き去りにして比叡山におもむいた自分と、
そして寒さにふるえながら念仏行をつとめていた堂僧の日々が、
とぎれとぎれに頭のなかを流れていく。
綽空と恵信は、自然に体をよせあい、
おたがいの呼吸がひとつになるのを感じた。
大きな海のなかに抱かれるような気がした。
(こんな自分でも、なんとか生きていくことが出来るかもしれない)
と、綽空は思った。
恵信の体がやわらかにほどけていくのを綽空は感じた。
そして思いきっていった。
「いろいろ、立派なことをいいましたが、
わたしのほんとうの気持ちは、あなたがほしい。ただそれだけです」
「わたくしもです」
(新聞連載小説 抜粋)